週刊RO通信

自由と民主の看板も嘘か!

No.1203

 「明日から休み、うれしいな! 勉強しなくて うれしいな!」。これは、映画『チップス先生、さようなら』(1939)の一場面。全寮制スクールの生徒たちが敬虔な祈りを捧げた後、夏休みに入る解放感を唱和する。

 こちらは、敬虔でもなく、真剣でもなく、真摯でもなく、ひたすら数をよすがとして時間だけを稼ぎ(正しくは浪費)、なりふり構わず強行採決。モリ・カケ疑惑のほんの帳尻合わせの審議を設け、後は野となれ山となれだ。

 Abe friend内閣がやったことは、嘘で固めて、恥の上塗り、知らぬ顔の半兵衛を決め込むという三拍子。典型的成り上がり紳士諸君が、費やした千言万語の信頼度は、まことに遺憾ながらゼロに等しい。

 これは、他人が無責任に貶めたのでもなんでもない。類を以て集まった成り上がり紳士諸君が重ねた実績の数々によって評しただけである。わたしは、今度の議会ほど自由民主党という名前が嫌いになったことはない。

 わたしは、もちろん、自由と民主という言葉を限りなく尊重する。しかし、その看板を掲げる政党の実態は、自由(自分たちの好き放題)かもしれないが、国民に対する公僕意識や、民主などカケラも見当たらない。

 もともと、自民党は自分党だと広言して憚らぬ政治家が多かった。しかし、それでも民主主義に立脚していたはずである。いまや、そんなものはどこ吹く風だ。一強の驕りどころか、ついに本性をさらけ出したというべきだ。

 自由・民主など真っ赤な嘘だ。米司法長官セッションズ氏の言葉を拝借すれば、これぞ、「an appalling and detestable lie」(ぞっとするほど、忌まわしい嘘)というべし。この6月15日は、最低議会政治記念日というべし。

 組織犯罪処罰法改正案が、五輪・パラ輪に向けてテロ犯罪を防止するために、国際組織犯罪防止条約(TOC条約)に加盟するために、必要だという理屈は、無理やりつけたこじつけに過ぎない。

 第一、立法事実という言葉がある。法律の目的、手段が合理的であるかどうか。政治的・社会的・文化的な理由や、実際に必要としているのかを明らかにするのであって、提案者は説明責任をきちんと果たさねばならない。

 第二、所管大臣が真っ当な答弁一つできないような法律は出発点から間違っている。法律や法律専門家に対する信頼が失われてしまったときには、法律の保障機能が同時に危険に瀕する。これ、法律の基本である。

 数々の質問に対して、明確に解明する答弁がない。これでは欠陥法案であるというしかない。仮に、その目的とするところを是としても、法律が本来備える体裁を備えていなければ欠陥法である。

 法律の生命は、人々に命令することにあるのではない。人々が納得して法律を受け入れなければ法律としての生命がない。まして、内外に発生したプライバシーが危険に冒されるという主張は無視できるほど小さくない。

 ヘーゲル(1770~1831)いわく、「刑罰は、権利の否定の否定である」。これは、誰もが認めるだろう。プライバシーを否定することを否定しなければならないのに、それをさらに否定するのだから無法状態に戻っている。

 新聞は、安倍自民党が一強の驕りで緩み弛んでいると批判するが、そのような見方は甘い。まさに、これが「看板に偽りあり党」の本質である。倫理道徳的な問題ではない。自民党は民主主義に対してクーデターを起こした。

 メディア各社にも一言忠告する。メディアは、ただ事実を流せばよいのではない。いわば、政治権力に対するチェック機能を果たさねばならない。そこで、たまたま時の権力と見解が等しければどうするべきか?

 メディアが政治権力と同じ主張であれば、それは堂々と述べればよい。ただし、メディアは、民主主義の岩盤に立脚しなければならない。民主主義に則らない権力の動きには、読売新聞としても断固批判の矢を放つべし。

 H.D.ソロー(1817~1862)は「少数は多数に迎合する限り無力である。(迎合するのであれば)少数でさえない」と喝破した。もし、自民党内に良識の人があるならば、この言葉を拳々服膺してもらいたい。

 そうでなければ、もはや、自民党は死んだ。わたしの耳には、自民党の暴挙、堕ちるところまで堕ちた事実に対して、ショパンの「ピアノソナタ第2番変ロ短調作品35」が聞こえる。