週刊RO通信

何がおかしいのか考える春季交渉にする

NO.1339

 1月28日は、連合と経団連の会談で、今年の春季賃金交渉が本格的に開始する。賃金はもちろん、各企業と企業別労働組合の間で交渉して決定するのだから連合と経団連が決定するのではないが、大所高所からの論議が個別労使交渉の舵取りに影響を与える。この小論では、組合の賃金交渉に対する主体的な取り組みについて少し考えてみたい。

 賃金交渉は、組合が始まって以来、活動のいちばん大きな柱である。賃金は、企業と労働者の雇用関係のもっとも基本である。雇用契約は、本来、対等な関係において、企業と個別労働者の間で締結する。

 対等取引であれば、売り手と買い手が納得した場合に売買契約が成立する。労働力も商品であるから、買い手である企業には雇う自由と雇わない自由がある。同様、売り手である労働者にも雇われる自由と雇われない自由がある。

 しかし、これは理屈にすぎない。採用面接で、労働者が「長時間労働はしたくありませんがよろしいか?」とか、「有給休暇はきちんと取得できますか?」と質問すれば、まず雇用関係が成立しないであろう。

 個別労使関係において労働者は決定的に不利であるから、組合を組織して、団体的労使関係によって労働条件を話し合う。雇用関係のもっとも基本である賃金交渉であるから、組合員の関心が高くないのはおかしい。

 わたしの取材では、組合員の不満は「賃金が安い・長時間労働・休暇が取れない」という3点に集約される。ならば、賃金交渉に大きな関心が寄せられて当然のはずだが、冷静というべきか、「お任せ」的気風である。

 自分は活動に参加せず、獲得した成果だけはもらいたいというフリーライダーは組合始まって以来の存在であるが、組合員の組合離れが執行部の中で大きな悩みの種になったのは1980年代である。以来40年、組合離れは「所与」として、格別問題を感じていないような雰囲気が感じられる。

 組合員諸君は、果たして「賃金とは何か」について考えたことがあるのだろうか。もしかして、賃金は「いただける」ものだと信じているのではないか。封建主義的企業においては、労働者は粉骨砕身働くのが当然で、たまたま経営者の眼鏡にかなえば「愛い奴じゃ」というわけで取り立てててもらえる。「賃金を上げてほしい」などと文句を言うのは不逞の輩であった。

 敗戦後、占領政策で労働組合育成策が取られ、雨後の竹の子のように組合が立ち上がった。ご主人さまと家子郎等の主従関係から労使対等へ大転換した。「働かせていただく」から(労使対等において)「働く」ようになったのである。賃金も「いただける」ものではなく、売り手として労使対等において要求するようになった。

 経営者は、経営者にとって経営権は絶対不可侵だと主張していた。その理屈からは賃金決定も経営権の柱である。コストとしての賃金を自分の裁量で決定できなければ経営が成り立たないとする。

 これに対して、組合は、労働者は労働力を(商品として)売って生活するのであり、自分と家族が生活できる賃金を要求する権利があると主張した。壁は厚かったが、先人が粒粒辛苦して賃金交渉を当然の権利として定着させたのである。換言すれば、経営権の一部を獲得したのであり、労働者の経営参加が前進したのである。これを忘れてはバチが当たろうというものだ。

 労働力の売り手とはどういう意義か。売り手は自分が売ろうとする商品に値札をつける。八百屋が大根を売るのに、お客さん任せで、いくらでもよろしいなどと言うわけがない。組合員諸君に、その気持ちがあるだろうか。

 さらにいえば、働く行為は自分の時間の使用権を譲渡するのである。残業に例えてみよう。3時間残業して3千円儲けたとする。ところで、自分の時間は1時間当たりいくらだろうか。これを仮にX円とすれば、儲けたと思っているが、実は本当の儲けは、「3千円―3X円」である。

 長時間労働に耐え、有給休暇を取得せず働いていることに美学を感じているのだろうか。自分が失っている「自分時間の価値」すら考えないのは、客観的には、美学というよりもマゾヒズムみたいである。

 自分の仕事に自負と誇りを持つ一人前の労働者であれば、賃金交渉に無関心なことは、自分の人生の価値に気づかないのと等しいのである。