週刊RO通信

ドタバタ喜劇の行く末は?

No.1202

 喜劇は、物語の展開や登場人物が滑稽で、人々の笑いを誘う。人々は愉快な心地がする。内容は、戯言、諧謔、諷刺、皮肉がちりばめられている。だいたいは、角の立たない結末に導くものが多い。

 喜劇の登場人物は、自分が考えて行動している本質がわかっていない。至極真面目にやっている。聴衆はその愚かさに気づいている。もちろん、ただハチャメチャ、デタラメな作品では面白くもなんともない。

 あまりにもバカバカしい作品は別として、聴衆が、登場人物のバカバカしさに気づいたとき、無意識のうちにわが身を顧みてハッとさせられる。笑いの価値の1つは、笑っている対象に自分が思い当たることである。

 だから優れた喜劇は、表面的には愉快であるが、じっくり考えてみると深刻な問題を提供するのである。痛烈な諷刺を放ったモリエール(1628~1673)は、「嗜みのある人間を笑わせるのは難儀だ」と語った。なるほど。

 嗜みのある人間というほどではないけれども、わたしは、ただ退屈しのぎ、時間潰しができればよろしいというようなものは、喜劇に限らずご免蒙る。人々は、悲劇が好きだろうか、はたまた喜劇を好むのだろうか?

 まあしかし、木戸銭払って出かけなくても、ちょいと視線を巡らせば、巷には笑劇、喜劇みたいなものが充ち満ちている。かの永田町においては、連日絶え間なく上演されている。高質の作品といえないのが残念だが——

 加計学園の政治的決定を巡って、前の文科次官が、いわば内部的外部告発をやった。対する官房長官は、前次官が出会い系バー通いしていたとの情報をリークし、こんな人間の告発は信用できないと印象操作した。

喜劇役者の重要な条件は、笑わせてやるとか、不真面目な態度があってはならない。なにからなにまで、とことん仏頂面一筋、「誠心誠意嘘をつく」と喝破したのは政界策士と呼ばれた三木武吉(1884~1956)であった。

 しかも「民間人」のいうことなどまともに取り合わないとする。これは、まともなデモクラット政治家であれば絶対に口外してはならないのだから、実に素知らぬ顔してタブーを破る。喜劇役者である。

 森友学園事件以来の一連の動きを物語に仕立てれば、権力支配層連中は仏頂面これ努めて、モグラ叩き風に防戦これ努めているが、ボロが次々に露見する場面はドタバタ喜劇そのものだ。

 共謀罪法案は、どこから見ても戦前の官憲国家へ逆戻りの内容である。「一般人」は関係ないなどと、法務大臣が答弁する姿は漫画以外のなにごとでもない。空虚で漂うがごとき視線の使い方など木偶の演技が素晴らしい!

 「かつてあなたがたは猿であった。だが、いまもなお、人間は、いかなる猿よりも猿である」(ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』)。記者会見、答弁を見ていると、ついついこんな言葉を想起する。(失礼顧みず)

 国民は、笑いながら! 実は(聴衆として)喜劇の片棒を担いでいる。一般人も特殊人も国民各位が判断するのではない。その判断を権力(官憲)に委ねるのである。ということくらいは先刻ご承知であろう。

 こんな話もある。天文学者カッシーニ(1625~1712)が、月食の観測をするので人々を招待した。遅れてきた1人の女性が「先生、もう一度やり直してくださいませんか」とお願いした。

 アブナイカクの支持率が下がらない理由は、「他に人がいない」という奇妙な理屈づけがされている。人がいないからといって、デモクラットでない政治家に権力を委ねることができるだろうか?

 アメリカも大変だし、イギリスも大変らしい。日本は天下泰平のドタバタ喜劇上演中だとすれば、お笑い劇場「2017年的大日本民主主義国」の結末はいかが相成りましょうか。

 かつて、ナチズムは、「ドイツの解放運動(フライハイト)」を名乗った。後から見れば苦い笑いが込み上げる。自由と民主に逆行する法案を平然と通そうとする自由民主党なる名前が黒い冗談に見えてくる。

 わたしは、価値あるものとそうでないものを峻別できる人間になりたい。人々がアパシー(→虚無)に没入している限り人々の幸福は改善されない。人々は喜劇的悲劇の真っただ中にあると思うからだ。