週刊RO通信

「働く」とは、どういうことか

NO.1335

 みなさま、年末年始のお休みに入っておられるだろう。年末年始の休みというのは連休であっても、なぜか気ぜわしい。1年間の心身の疲れをすっきりと解消できればいいのだが、なかなかそうもいかない。

 昔は、新たな年の手帳をどれにするか。書店へ出向いて物色する。これが悩みであり、楽しみでもあった。昨今は、スマホ時代だから昔のように手帳探しの悩み、いや、楽しみがないかもしれないけれど——

 気ぜわしいと書きつつ、1つの提案をしたい。「働く」とは、どういうことか、少し時間を取って考えてみたい。というのは、数年前から働き方改革という言葉が登場したが、他人事のような気風が感じられるからだ。

 官製働き方改革の評判がパッとしないのは当たり前で、失礼ながらいちばん働いていないと見られている政治家が打ち出したのだから、どこにも「わたし」の視点が登場しないわけだ。出発点は「わたし」である。

 「わたし」にとって、仕事とは何だろうか? 自問自答してみると、これがなかなかの難物である。いちばん単純なのが、食べるために働くという回答である。しかし、なんだか寂しい。

 食うこと、飲むこと、生むことなどは、なるほど人間的な諸機能ではあるが、それらを人間的活動のその他の領域から引き離して、唯一の究極目的にしてしまうような抽象をしてしまえば、それらは動物的である。――これは、歴史的に名高いある哲学者の指摘である。動物は酒を飲まぬにしても、食べて、寝て、子どもを生む。生活の糧論にどっぷり浸るのはいささかシャクである。(野生動物が自然に発酵した酒精を飲むという話もあるが)

 一方、古今東西「労働の神聖」という言葉が使われる。労働がなければ社会を維持できないのであるし、何かに働きかけて価値を創造するのだから、神聖であるとしても過言ではない。看板としては上等である。

 ところがどっこい、古今東西、神聖な労働をしている人々が大切に処遇されていない。成果物のおカネが神様扱いされているのに、それを生み出す人々が粗末に扱われるのは大矛盾である。

 「働かざる者食うべからず」という。古くはパウロ(~64)の言葉が有名である。さらに16世紀の宗教改革以降は、働くことが神の意に沿うことであり、おおいに美徳とされた。働くことが贖罪の第一等というわけだ。

 キケロ(前106~前43)は「カネのために労働をくれてやる者は誰でも奴隷だ」と痛罵したから、労働の神聖論にキリスト教が大きく貢献したことは否定できない。

 ナポレオン(1769~1821)は、「余の人民は、働けば働くほど悪徳が減ろうというものだ」と主張した。「小人閑居して不善をなす」(『大学』)と似ている。ILO(国際労働機関)第1回総会(1919)で、経営者代表の武藤山治(1867~1934)が、これを使って、8時間労働制などに反対した。

 これに対してラファルグ(1842~1911)が正面から反対論を唱えた。労働の神聖などと実業家と聖職者がのたまうが、労働者の心身の歪を見よ、知的荒廃を見よ、産業革命によってブルジョワジーが肥え太っているが、労働者は生きるために働いているのに、労働によって寿命を縮めているではないか。

 人間的生活を送るためには、過剰労働で心身を摩滅させてはならない。「休息は健康なり」、そして、人は「瞑想の習慣」を欠かしてはならない。失業を恐れて労働者は働く権利のみに目を奪われているが、本当に必要なのは働かない権利、「怠ける権利」であると喝破した。(『怠ける権利』)

 みごとなコペルニクス的転回である。働くことは確かに価値がある。しかし、心身の健康を崩し、「わたし」の人生を謳歌できないような働き方は絶対に神聖なものではない。

 ILOは、ディーセントワーク「働きがいのある人間らしい仕事」を提唱している。もっと短くいえば「Dignity work」、「人間の尊厳」に基づく「尊厳ある労働」でありたい。「わたし」の貴重な時間を労働に注ぎ込むのである。「わたし」の時間(人生)は他の価値に代えがたいはずだ。

 世界でいちばん輝くニッポンにするために、新規まき直し、「Dignity work」をめざそうではありませんか。