論 考

味わう言葉なき、山上被告への奈良地裁判決

 山上徹也被告が安倍元首相を狙撃し殺害した事件の奈良地裁判決は、殺人に対する罪責の刑罰がどうなるかという点だけに注目すれば、極刑か、どのくらい情状酌量されるかにあった。

 裁判では、被告が行為の政治性を否定している。しかし、異常な苦難を強いられた、いわゆる宗教2世が、無辜の民に対して全然無意味な八つ当たり殺人をしたというわけでもない。だから判決が、問題にどのような意味のある解釈を与えるのか注目したのであるが、いかにもさっぱりと割り切った内容で、肩透かしを食ったようである。

 演説を聞いている300人の聴衆、散弾銃を2回発射、背後からの襲撃で、犯行態様は卑劣で極めて悪質という表現はしっくりこない。選挙演説の邪魔をして民主主義を破壊する狙いではないし、被害者がもっと増え、公共の安全性に危険性があったというが、殺害した事実は1人であるから、その罪責をのみ問うべきで、犯行範囲を拡大するような言葉は判決には不要である。

 計画性の高さも指摘するが、本来狙った教団主催者ではなく、安倍氏に矛先を転じたのをみれば、むしろ、場当たり的である。

 犯行は、長年にわたる精神的苦悩、生活的苦難の末のやりきれなさの行き詰まり、具体的に問題解決する方策がない絶望の果てに、たまりたまった怨恨が突き動かしたのであって、いわば、法に依らない制裁・リンチである。と、考えれば本人が追い込まれた精神状態(生活状態)を、もっと掘り下げるべきではなかったのだろうか。

 判決は、兄の自死による衝撃が激しい怒りに転じたことの理解が不可能とは言えない。幼児期から青年期にかけての体験が人格や思考などに影響を与えたとしつつ、激しい怒りの感情が殺人行為の決行に及んだのは大きな飛躍だとすっぱり切り捨てる。殺人行為が飛躍だと割り切りにくいところに、本事件の性質があるのではないのか。

 判決は、――被告は家族をめぐる激しい葛藤や教団に対する負の感情を長年ため込んできた。内心でこれらを健全に解消し、あるいは合法的な手段による解決を模索することなく殺人を実行した意思決定の過程に生い立ちの不遇性が大きく影響したとみることはできない――と突き放すが、殺人という結果だけを必要以上に強調して、被告が追い込まれた心情に関わることを避けている。

 すべての犯罪は、内心で問題を健全に解消できないから発生する。合法的な手段による解決を模索せずというのであるが、どうすればよかったのか。いまも教団問題は解消していない。1980年代以降、国会議員1500人以上が204億円もらったという。

 教団が議員に肩入れするのは、結局、教団活動を拡大するための手段である。手段に成り下がっている議員がいなくなったのではない。たとえば政治家の安倍氏が直接信者から金集めしたのではない。しかし、政治家連中が教団と無分別な関係を作っている事実を考えれば、徒手空拳の被告に、内心の健全な解決や、合法的な手段による解決をなどと説諭できるものではない。

 人を死に追いやるのは武器だけではない。卑劣な凶行を呼んだ教団が卑劣でないとは言えない。そして、自分が手を染めない卑劣もある。