筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
松尾さんは50歳越えるまで、組合大嫌いであった。それが、組合の中高年対策が走り出して風向きが変わった。新人事制度が納得できなくて不満を口にしたのがきっかけで、組合が中高年者に意見を聞く集まりに参加したのである。
わたしは、本部の中高年対策委員としてその集会に参加した。集会の模様を取材して機関紙に掲載するのが目的である。わたしは30歳、松尾さんは親世代である。松尾さんが組合へ顔を出すこと自体、大変化であるとは知らなかった。
おおかたは賃金労働条件に不満が集中するが、彼は違っていた。歯車制作のベテランである。現場作業の最高職名の「工長」を目前にしていた。ところが、人事制度の変更で、工長が消えてしまい、工長相当者は係長待遇のスタッフに転勤させられる。彼の不満の原因はこれである。
技能一筋に生きてきたのに、その頂点の工長が消えた。技能者(の人生)があまりにも軽々しく扱われている。これが長年の貢献に対する扱いか。歯車ではないぞ。スタッフ職は従来よりも賃金は上がる。彼が問題にしたのは賃金ではない。工長がいとも簡単に消されたことに対する強烈な不満である。
わたしは、松尾さんの気持ちを十分に忖度して原稿にした、つもりであった。しかし、時間が過ぎて、理解不十分だったと気づいた。松尾さんはその後、青年部に頼まれて、文化祭の演劇の役者として活動した。その記事を青年部員が記事にして投稿したので知った。入社30年、組合大嫌いで仕事一筋の松尾さんが大変貌を遂げた。単に人事の扱いが気に入らなかった程度ではない。もっと根元から意識変化を起こしている。
それから別の集会で再会したり、いろいろ話を聞いて、わたしは松尾さんの意識変化の意味がようやく理解できた。
戦時中、20歳そこそこの松尾さんは徴集兵として戦地へ出た。難攻不落といわれたシンガポール攻略のジョホール戦で命を懸けて戦った。工兵隊のリーダーである。夜陰に紛れて本隊が進軍するために、逆方向へ照明をつけて、トラック部隊が全力疾走する。帰途は照明を消して暗闇を走る。出発点に到達するとまた照明をつけて全力疾走。おとり作戦である。
命を捨てず帰還し、運よく会社に戻った。気がつけば人生半ば、当時の定年は56歳、先任制度で60歳だから、会社生活は卒業間近である。その後は希望して町工場へ出向した。船用品専門の小さな会社で、注文されて漁船の部品を作る。図面はない。交換部品がない。現場合わせである。磨きのかかった腕にさらに磨きがかかった。
いわば、敗戦までの滅私奉公を、戦後は滅私奉社で過ごしてきた。騙されて戦争させられた。というような器用な納得をしたわけではない。いわば、そんなことは無関心に、ひたすら戦後を生きてきた。逆にいえば、皇国少年、戦陣訓が叩き込まれた頭はそのままに30年が過ぎた。
それに比べれば、人事制度の変更など微々たるものだ。しかし、それは違うのだ。敗戦までは全く徹底した思想教育で、一切「個人」はない。後知恵でいえば、松尾さんの戦前マインドコントロールは敗戦では溶けなかったが、工長制度の廃止がきっかけで、「なにか、おかしいぞ」と思ったに違いない。希望して出向したのは、これ以上騙されたくない。腕一本の領域で力いっぱいやって、技能人生を仕上げる心意気である。
定年後も味のある話がある。本を読もうと思い立った。これは組合活動の影響だ。家には一冊もない。地元の浜屋百貨店で本棚を購入した。本を読むための段取りである。次に長崎新聞の読書欄に紹介される本を買う。数ページ読んだが、どうもしっくりこないので、また違う本を買う。これもダメ。こんなことを数冊繰り返した感想、「新聞の読書欄はダメだ」
老いた母親が手掛けている小さな畑がある。最近、母親は農作業に力が入らないので、自分が活用すると決めた。まず、ビニールハウスを設えた。段取りである。トマトの苗を植えた。好きと言うほどでもないが、お店で見ていたらトマトがとても輝いていた。順調に育っていたが、ある日台風並みの強風でごっそりハウスが飛んでしまった。がっかりした。
OB仲間に誘われて、乗り気ではなかったが、週1回バトミントンクラブに顔を出す。スポーツなど別世界と思っていたが、持ち前の運動神経が開発されてめきめき腕前が向上する。今度は、週1回では物足りない。そこへ女性グループから一緒にやりませんかと声がかかった。こちらは週2回、ますます腕が上がる。
松尾さんが「小説を書いたので読んでくれ」という。原稿用紙40枚コピー、達筆、力作である。内容は、女性バトミントンクラブで、お父さんと慕われるようになり、人生相談も頼まれる。松尾さんの飾らない率直な人柄が愛される。小説というより日記だなと思いつつ、どうコメントするか思案していると、「もうやめた」と電話が来た。細君が何気なく読んだらしく、浮気! が疑われて、原稿をびりびり割かれてしまった。大笑いしたのだが、笑っている場合ではなかった。細君が口をきかない。怒りが解けたのは半年後であった。
近所のかなり大きなゴミ捨て場が汚い。整理整頓のベテランでもある松尾さんは落ち着かない。片づけたり、掃除したり。水道があれば便利だと思ったので、市役所に事情を話して水道設置をお願いする。美化運動に熱心な当局は、期待に応えてくれた。ゴミ捨て場がピカピカになった。近所の人々が驚いたり感心したり。ちょっとしたコミュニティ活動が盛り上がった。
高齢化が進み、ときどき徘徊する老人が行方不明になる。さっそく、町内有志を集めて対策会議をする。あの人の行きそうなところはどこだろうか。この捜索隊は参加者も面白いのか、しばしば不明老人発見のお手柄を立てた。
定年後数年、松尾さんはお寺の檀家総代に押された。本山の会議に出張することもある。「定年後、忙しくなった」と笑っていたが、久しぶりにペンを執ってコラムを書いてくれた。「人生横にも歩け」という言葉が目を引いた。わき目も振らず50歳まで働いてきたが、人生は直線だけではつまらない。蟹のように横にも歩け、という。
ただ横に歩くのではない。松尾さんは50歳にして大変革を遂げた。自分から違う人生を発見した。漱石さんは講演「私の個人主義」で、不本意な英国留学で英文学研究を科せられたが納得できず、周囲が、気が狂ったのではないかと推量したほど悩みぬいて、自分自身の文学へ邁進する決心を得た。自分とは何か、何をしたいのか、悩みぬいて結論を得たら一瀉千里で行く。松尾さんは、漱石さんと同じく悩んで「私の個人主義」を握った。
自分を顧みると、横道にそれて道草食ってばかりで、わたしの個人主義はまだ覚束ない。自我を発揮するのは大変なことである。
