NO.1640
「外国人が鹿を蹴る」という発言は、本人が、確かではないと知りつつ、公的発言として不適当だということも弁えた上でなされた。だから訂正、取り消しもない。偽情報であるが、自分の選挙活動に対して効果が大きいと判断した発言であろう。単なる失言でないのがきわめて悪質である。
政治家として枢要なポストに就く人物がデマゴーグ(扇動政治家)だという証明である。その総本山はトランプだ。デマゴーグは民主主義の敵である。なぜ敵かというと、不確かなこと、ホラ、嘘偽りを駆使して政治をおこなう輩は、人間の尊厳など頭の中に持ち合わせないからである。
政治に限らない。商取引にしても、相互に信頼感があるからこそ成立するのである。信用できない商品がたくさん出回るようになると、人々の日常生活が不自由になる。活発な社会を望むべくもない。デマゴーグが巣くう社会は必ず秩序が破壊される。気づいたときは後の祭りだ。
なぜデマゴーグが大きな顔をする社会になるのだろうか。日本人の民主主義制度は80年ばかりの時間を過ごしてきたが、あまり上等な民主主義に育っていないみたいである。民主主義が育つということは、その精神を人々が大切に扱って、人々がデモクラットとして育つということに他ならない。
民主主義になったのはよかったが、落下傘民主主義である。それを自家薬籠中の物にするのは、一人ひとりである。兵士は号令で足並みが揃うが、デモクラットは号令からは生まれない。どこまでも、自立した個人が歩んでいくものである。わが内なる声に左右される。
敗戦後まもない、1945年10月1日の毎日新聞に寄稿された、パール・バック女史(1892~1973)の言葉である。――民衆が自由で独立的で自治的である国はいかなる国でも、つねに善なる人々と悪なる人々との間に闘争のおこなわれる国である。もし、この闘争が存在しないならば、それは暴君が支配して善き人々が力を失っていることを意味する。――
民主主義国においてデモクラットは、つねに悪との闘争を続けねばならない。その悪とはまさにデマゴーグである。発言の自由を大切にする民主主義社会は、デマゴーグが台頭することをあらかじめ防ぐ方法がない。質の良くない人物がいくらでも愛国者を気取ることができる。
なにしろ、愛国者の証明書などは存在しない。デマゴーグを防ぐ手立ては一つ、主権在民の主人公である「私」自身が問われている。これが民意であり、民意が高い識見を有するかどうか。人間はどんどん入れ替わる。いつの時代でも、その民意が社会の民主的自浄作用を支える。
「朕」の識見・良識のみが社会の絶対であった時期にも、佞臣、阿諛追従、誹謗中傷の類は問題を引き起こした。石破氏が「なぜ、あの戦争を止められなかったのか」の問題意識を表明したが、主権在民の時代には、文字通り一人ひとりがその責任を避けることはできない。
あの敗戦後、「私は騙されていた」という言葉がはやったが、主権在民においては、それはあり得ない。悪、デマゴーグと戦うということは、自分自身の安楽ばかり貪ってはならない。安きを偸むなというべきである。
主権在民という言葉は、戦後おおいに語られたが、数年後には忘れられたみたいだった、と桑原武夫(1904~1988)は、ルソーの訳書『社会契約論』のはじめに書き残した。
政治が悪いという声は慢性化している。そこで、かつて戦争の犠牲になったのは弱さの故であることを想起すれば、のほほんとしてはいられない。現実にデマゴーグが存在している。デマゴーグと知りつつ、わが生活の改善をお願いするのは、お人よしというよりも、依頼心の強さであろう。
依頼心の強い人々が作るのは、もたれ合い社会である。日本は安全で安心な社会だという外国からの訪問者の感想をよく聞く。本当にそうだろうか。落下傘民主主義を唯々諾々受け入れたのは上等ではあるが、そのための条件を顧みず、上面だけに順応しているのではないか。
主権在民を抜きにした民主主義はあり得ない。まあまあ、なあなあで、お互いに角を立てず民主主義ごっこしているのは、それなりに気持ちがよいかもしれないが、自分がデマゴーグに蹴られていることに気づかねばなるまい。
