筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
ニューヨーク大学ロースクールで、このほど連邦最高裁判所のソトマイヨール判事が、次のような講演をした。
「国民は、大統領と王の違いを理解する必要がある。初めから理解されていれば、人々が何をしてよいのか、何をなすべきでないのかということについて、民主主義において、何が重要であるか、より多くの情報が得られていたと思う。」
トランプが、見境なく政府を再編し、乱暴に移民を取り締まり、多様性プログラムを廃止し、政敵を激しく攻撃し、広範囲高額の関税をかけてきた。ソトマイヨール判事は、トランプの名前は挙げなかったが、きわめて深刻に問題を指摘した。残念ながら、記事(ロイター)には学生らの反応に触れていないが、リベラル派として知られている判事なので、おおいに共感しつつ傾聴しただろう。
法の上に立つ者はいない。それが民主主義である。トランプは、まったく超法規的に発言し行動している。こんなことが許容されるのであれば、それを民主主義とは呼ばない。
トランプが著しく目立つのは、自分と考えが異なったり、意に沿わない人を敵呼ばわりし、全面的に攻撃することである。たしかに、人の好みはさまざまである。差別意識を全く持たない人はおそらく存在しないだろう。しかし、それを無制限に発揮するなら社会は存続できない。
Stigma(スティグマ)という言葉がある。社会の多数者の側が、自分と異なる特徴をもつ個人や集団に否定的評価を烙印する意味である。これは、差別意識と深い関係にある。
わたしの見るところ、アメリカ人はスティグマの性向が強い。深刻化すると、全人格、人間性を否定してしまう。しかも、トランプがその先頭に立っている。イスラエルのネタニヤフも、ロシアのプーチンも、政治的計算上かどうかは知らないが、あきらかに敵対する相手の人間性を無視している。
人間は、はじめは差別意識の塊であり、その社会はスティグマが支配していただろう。それに少しずつ文明の光を当てて、ルネサンスでは人間そのものに気づいた。中世から近世にかけて民主主義の芽を育てた。
差別意識やスティグマを克服するのは、個人や集団の啓蒙である。民主主義は単に政治体制の問題としてだけではなく、人が全人格的人間に育っていくプロセスでもある。
世の中を変えるといえば、単純にガラガラポンの考えに支配されやすいが、それはおおかたの場合、破壊行為である。変えるためには、破壊しなければならないが、それだけでは人間社会が育たない。
社会を育てるのは、どこまでいっても個人の営為である。個人が育つ、社会が育つのである。個人が育つのは民主主義である。
トランプは単に王と勘違いしているだけではない。人間を退化させようとする悪意の塊に見える。
