論 考

蘇った鄧小平死去スクープ合戦の記憶

筆者 高井潔司(たかい・きよし)

 長年抱えてきた問題が思いがけない形で解けたので、感情のおもむくまま、以下のようにフェイスブックで発信した。しかし、もう少し考えをめぐらし、「論考」として発表すべきだったと、反省している。

28年目の真実

 ――群馬へ農作業に行く車中のラジオ。爆笑問題の日曜サンデーに元朝日記者の星浩氏がゲストで出ていた。テレビキャスターに転身するとこんな番組にも出るのか、と耳を傾けていたら、記者時代、これはというトクダネはありましたか、という問いに、一人で書いたわけじゃないけど、中国の最高実力者、鄧小平の死去を抜きましたという。

 彼は当時、ワシントン特派員だったそうで、北京の軍の病院に中国の要人の車が集まっているという北京特派員の情報を端緒にワシントンで取材をしたところ、ある人から鄧が死んだというハードエビデンスがあると聞き、これが決め手となって、鄧小平死去の特報となったという。朝日の記事は、ストレートに死去を報じたのではなく、日本外務省が橋本首相に対して鄧小平死去の情報を報告したという記事だった。

 そのため私が所属していた読売新聞では朝日に抜かれた責任を巡って、政治部が外報部かと責任のなすり合いがあり、結局、北京支局長だった私が詰め腹を切らされた。あれから28年、トラウマというほどではなかったが、あれは一体、どういうことだったのかと、気になっていた。この間、桜美林大学で同僚になった元朝日政治記者から、高井さん、あれはワシントンで抜いたんで高井さんの責任じゃないよと言われてはいたが、確証もなかった。それが、何と、あれから28年、当事者の星氏から、こんなラジオ番組で、あっさり真実が明らかにされようとは。――

           〇

 振り返ってみると、最高実力者の死という中国の最高機密をめぐってスクープ合戦を演じるなんて新聞にも元気な時代があったもんだとも思う。しかし、それは新聞の本来の報道目的から大きくそれていたのではないか、というのが、私が長年抱いてきた問題意識であった。朝日に抜かれたのは、私の責任ではなく、政治部の責任だったなどということではなかった。

 あの当時、スクープ合戦が話題になると、長年ご指導願っている中国研究者、矢吹晋先生から、「そんなことは、新聞業界のマスタベーションに過ぎない。当局の発表なしに最高機密である鄧小平の死去など掲載できるはずがない」と、よくお叱りを受けたものだ。鄧氏をめぐっては、死去の数日前から、香港メディアを中心に、重体説、死亡説が報じられていた。これはあくまで情報が流れているというだけで、確認された情報ではない。情報だけでは「鄧小平死去」と、断定的に書けない。いや書いてはいけない。それが新聞の鉄則であり、倫理である。フェイク情報でも拡散してしまうSNSとの違いでもある。

 朝日新聞の当日の見出しも、「鄧小平氏死去か」「外務省が首相に報告」となっていて、決して「死去」と断定的に書いていない。中国当局によって確認された情報ではないからだ。ではなぜ私たち記者の間で、朝日のスクープと見なされたのか。一つには、朝日がそう印刷した数時間後に、中国当局が死去を発表したこと、もう一つは日本外務省という権威ある機関が死去の情報をつかんでいることを確認し、報道したからだ。

 スクープしたと認める星氏は放送の中で、「米CIAや日本政府は情報をつかんでいたんですね」と述べていた。恐らく星氏はそのCIA情報、彼の表現でいうと「ハードエビデンス(固い証拠)のある情報をつかみ、これを東京本社に伝え、本社の政治部が外務省や首相官邸にCIA情報を当てて、外務省から首相に報告したという確認情報を得たのであろう。

 まだ日中関係が良好な時代だったから、外務省は政府間のチャンネルを通して早い段階で死去の報を得ていた可能性がある。しかし、朝日は肝心の中国当局の確認を得ていないから、「死去」とは書けない。星氏は、放送の中で、この見出しでも、「もし間違っていたら、私と政治部長は辞表を書かなければいけなかった。はらはらドキドキだった」と、当時の心境を語っている。

 実は、中国当局は鄧氏死去について極めて迅速に発表している。1997年2月19日午後9時過ぎ(日本時間同10時過ぎ)に死去し、翌午前2時ごろ発表した。したがって、朝日新聞の「死去か」という見出しが躍った新聞が配達される数時間前からNHKは「中国政府が死去と発表」というニュースを報じていた。他紙は、号外で死去の発表を伝えていた。それどころか、一部の地方紙は20日の朝刊で、死去の発表を伝えていた。紙面だけ単純に比べれば、スクープしたはず朝日の方が内容的にずっと遅れていた。

 そのからくりとは、多くの日本の新聞社は朝刊の締め切り時間について協定(業界では降版協定)を結んでいて午前1時35分以降に発生した出来事について報道しないことになっている。したがって、鄧小平死去の発表は協定時間以降だったので、新聞の製作工程上は可能であっても報道できなかった。そこで号外という形で報道した。ところが、一部の地方紙はこの協定に参加しておらず、堂々と死去を報じた。日本では年間の大スクープや優れた調査報道に新聞協会賞が贈られるが、朝日は申請しなかったのか、受賞しなかった。むしろ発表を報じただけの地方紙が受賞を申請したと聞く。

 まさに矢吹先生が批判する通りなのである。もはや新聞が速さを競って一次情報を報じる時代ではなくなりつつあった。もっとも、“鄧小平番”として、1996年異例の二度目の北京支局長として喜び勇んで赴任したのだから、そう偉そうなことを言える立場にない。

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 それにしても、マスコミはなぜ鄧小平死去をめぐってかくも熱狂的にスクープ合戦を展開したのか。それは1989年の天安門事件が大きくかかわっていた。この事件では、共産党内が保守派と改革派に分裂、中国は危機的状態に追い込まれた。最高実力者、鄧小平が重しとなって何とか、事態を収拾し、共産党政権は存続できた。だが、日本国内では鄧小平が不在となれば混乱必至と半ば期待も込めて、その前途を懸念する声が広まっていた。完全引退していた鄧小平の動静に、依然強い関心があった。

 しかし、そんな懸念は鄧小平も重々承知のことであった。毛沢東時代の独裁の弊害を是正するため進めてきた権力の分散――党は趙紫陽総書記、国家は楊尚昆国家主席、政府は李鵬首相、軍は鄧小平軍事委主席――を止め、天安門事件の後、李鵬首相は留任したものの、その他のポストは後継者、江沢民に集中した。

 そして彼自身、全面引退した。経済面では、92年高齢を押して、上海や深圳といった経済先進地域を視察して、改革・開放路線の一層の深化、市場経済への移行を指示する「南巡講話」を発表した。

 鄧小平死去の報道にあたって、私は以上の点を指摘し、中国の今後は鄧小平の不在に関係なく、改革・開放路線を継続し、混乱はないだろうと書いた。ところが、東京本社の編集幹部は、混乱の恐れもありと書き直せと指示してきた。

 こちらは朝日に抜かれたという弱みがあったが、これは譲れなかった。天安門事件後も中国を毎年、出張取材し、鄧小平番として二度目の北京駐在で、中国をじっくり見てきた。その結論として、こちらは「混乱なし」と書いているのに、東京は相も変わらず中国の混乱を期待している。

 この論戦は、結局、混乱という見方もあるが、中国当局はそれを回避するための方策を講じており、混乱はないだろうということで落ち着いた。私の捨て台詞は「その代わり原稿は長くなりますよ」だった。死去を報じた号外の見出しに「大きな変動ない見込み」はその論戦の名残りだ。

 以上の点を見ても、当時の新聞は「鄧小平死去」という第1次情報のスクープに余りに傾き、その死去を受けて中国はどうなっていくのか、という問題意識に欠けていた。完全引退、隠居した老人はいずれ亡くなる。その動静よりも、大国化しつつあった中国の動静を見ていくこそが大切だった。インターネット時代に入って、解説機能という新聞の役割はますます重要になっている。それを軽視したら、もう新聞はすたれるしかない。