筆者 新妻健治(にいづま・けんじ)
――思い出深い仕事があります。心を満たすものを見つけ、充実した人生を歩みたいと思うも、私にはどうしたものか解らず、うっ屈した30代がありました。しかし、出会った仕事が、自分はどう在るかを垣間見せてくれました。
その頃に抱いた私の想いが、これまでに充分な結果となったとはいえません。しかし、私は、諦めずにいます。ですから、苦しむこともあるのですが、僅かであっても、善き変化に、楽しいと思える日々なのです。
中高齢化対策専門委員会
私には、思い出深い仕事があります。それは、労働組合の専従として働いていたころ、従業員の中高齢化問題への対応を検討するための専門委員会で、事務局の仕事を担ったことです。
私が就職した大手小売業は、当時、創業から20年余、急成長を果たしました。しかし、バブル崩壊と軌を一にして、売上規模は拡大するも、経営効率は下降線を辿るようになっていました。そして、創業期からの事業規模の拡大に伴い、大量採用した団塊の世代のボリュームが、着実に平均年齢と平均賃金を押し上げていました。私たちにとって、従業員の中高齢化は、初めて直面するものでした。
このころ、製造業を中心に「リストラ」と称して、中高年の従業員に対して、配置転換や希望退職など、厳しい進路選択を迫る事案が、数多く喧伝されていました。また、大手小売業の中にも、経営が行き詰まりを見せる事例が出始めていたころです。このようななか、当時の執行部は、概ね30代前後と若く、会社の持続可能性と、自分たちの将来を重ね合わせてみたいという動機もあって、「中高齢化対策専門委員会」が設置されたのでした。
事務局仕事
私は専従になって3年、福祉と賃金の政策を担当した後に書記次長となり、この「中高齢化専門委員会」の事務局を、任されることになりました。私は、事務方としての経験も浅く、委員会の運営もままならず、アウトプットの落としどころの見極めもつきませんでした。執行部から選ばれた委員は、どうせ事務方がまとめるのだろうと、委員会では言いたい放題で、収集がつかないままでした。
いよいよ、2年の検討期間の前期の終盤にさしかかり、上司の書記長が「新妻さん、専門委員会報告だが、議案書にどう書けばええねん。」と、言ってきました。「そうですね、今期は、何も書くことはありませんわ。」「いや、それはあかん!」と一言。私は、「へっ?」と、答えるしかありませんでした。
そこから、尻に火が付きました。困った私は、付け焼刃で、企業の中高年対策の書籍を読み込み、専門委員会で議論したことでもあるかのように、それを数行にまとめ、途中経過だとして、報告議案書に書き込み、凌いだのでした。今思えば、あきれ返る所業ですが、当時の私には、どうもこの問題に執着する本気が無かったのです。
答申と会社への問題提起
当然、後半の1年は、さらに追い込まれるのですが、よくよく考えると、どうも、これは自分自身の問題だと思うようになりました。それから精力的に、シンクタンクを訪問したりして、示唆をもらうなどして、委員会での議論を深め、なんとか答申にこぎつけることができました。
専門員会がまとめた結論は、「従業員の中高齢化自体は問題ではない。問題は中高齢化に対応できない個人、制度、そして経営だ。」となったのです。この委員会の事務局仕事を始めたころの無気力さからは、我ながら、見違えるように変わっていたように思います。
そして、その答申から、経営に対しては、制度的な対応を中心として問題提起をしました。今思えば、労働組合として浅慮極まりないものでしたが、従業員構成のキープヤングを図ることが、経営の健全性を維持するのだとして、役職定年や出向・転籍に加え、早期退職制度等の必要性を提起しました。
しかし、人事担当常務は、「それは、成長で吸収し、排除はしない。」と、一言。これは、今思うに慧眼でした。私たちの会社の今を見れば、その通りになっています。世間の風潮を鵜呑みにした、私たちの理念なき、恥ずかしい限りの浅はかな問題提起は、一蹴されたのでした。当時の、常務に感謝です。
「パーソナル・アイデンティティの確立」
そして、組合員には、「パーソナル・アイデンティティの確立」という問題を提起しました。会社は、創業からの成長の時を経て守勢の時を迎えていました。経営が、環境変化とともに、更なる成長を企図して変わろうとしていくなか、働く私たちが、この変化に翻弄されることなく対応していくためには、「自分は何をしたい存在なのか?」という、揺るぎ無い自分自身を確立していく必要があると考えました。これは、自分自身の想いでもあったと思います。
そしてまた、中高年期は、発達心理学によれば、これまで築き上げてきた自己というものが、身体的変化や環境変化(家庭、会社等)から機能しなくなり、これからどのように生きていくのか、人生を深く見つめ直す時期、「アイデンティティの再体制期」になると言われていました。そのことも踏まえ、それは、「自分づくり」をともにしよう、という課題を打ち出しました。この意図は、後に、「ミドルエイジ・キャラバン」というプログラムの開発に結び付いたのでした。
また、専門委員会の答申を組合員に広報するために、「Who am I?―中高齢化専門委員会報告」という冊子を、私が主導して、作成しました。この冊子には、専門委員会の答申の骨子、企業が挑戦しようとしている事業戦略の概要から、私たちの身にどのようなことが起こり得るのか、それに私たちはどう対応していくべきなのか、私たちの将来を想像させるような短編小説(自作です)、そして、「私は誰?」というエクスサイズで構成しました。
私にとっての思い出深さとは
思い出深い仕事ということで始まったこの論考ですが、何をもってそのように感じたのか、自分なりに振り返ってみました。
入社から10年、職制でのキャリアを経て、縁あって組合専従役員になったものの、どのようなことが自分自身の心の内から込み上げるものとして執着でき、充実感を得ることができるのかがわからず、私は、かなりうっ屈した時間を過ごしていたように思います。
このような状況にあって、自分からでなく、与えられた仕事に向き合うことができず、1年目の体たらくの結末となるのでした。(前述)しかし、取り組むうちに、従業員の中高齢化問題が、自分事として思えるようになりつつ、行動が変わったように思うのです。そこからが、自分が考えたことを果敢に行動に移して得心し、それを皆に問いかけ、討議し、何らか一つの結果を導いていくのだというエネルギーとなりました。
答申からの問題提起で、経営に一蹴されるという恥ずかしい失敗もあったのですが、自分の考えを想いとして、具体的な実践に踏み出せたことが、後の仕事への向き合い方に、仕事に向き合う自信に、結び付いたように思っています。
ミドルエイジ・キャラバン
この答申から、組合員に「自分づくり」を訴え、ミドルエイジ・キャラバンというプログラムを開発しました。このプログラムを一言で表現すれば、働く仲間同士の「対話・共感・連帯」を促す運動であったと言えるのではないかと、思っています。
このプログラムでは、働く人びとに内在する不安や不満、なかなか表出しない自分の考えや想いを、ある働きかけを受け、また、同世代の人びとと、非日常のなかでの出会いと対話を通じて、それぞれが心を開き、対話をしながら共感し合っていくのです。
そのなかで、自分は日頃どんなことを想い考えていたのか、それぞれに自己認知を深めていきます。そのことは、同時に、悩んでいるのは自分だけじゃないと、仲間との連帯感となり、次に向かう活力へと、意識変容がもたらされるのでした。
私たちは、このプログラムの取り組みを通じて、働く仲間の想いの実相を知りつつ、どのようなことが、働く仲間の活力にとなるのか、運動論的に、それを促す要素が見えたように思いました。そして、「対話・共感・連帯」は、その後の私たちの運動・活動の基本として、反映されていきました。
「私は誰?」
前述した広報の冊子に掲載したエクスサイズとは、一定時間内に、20回「私は誰?」という問いかけにたいして、「私は〇〇です。」と、答えを紙に書いていくという単純なものです。これを進めていくと、最初は、属性的なことも含め外形的な情報から始まるのですが、徐々に内面的なことや、深層心理に近づいていくと言われています。
このエクスサイズの選択は、うっ屈していた私自身の想いを反映したものであったように思います。このエクスサイズを自分でやってみると、最後に「私は運動家」という言葉を導き出すことになりました。なにか、多くの仲間と、大きなより善い変化を生み出していく主体としての存在でありたいと思えるようになっていたのでしょう。
さいごに
だらだらと、思い出を書いてしまいました。総括できるとすれば、なぜこうなのか、状況に流されず、自分自身と真正面から向き合うこと。そして、自分自身がどう在りたいか、人生の目標を持とうとすることが、自分を生き得る、自分の人生になるのではと、私は思うのです。
私はこの仕事を通じて、「私は運動家」との想いを、表に出しました。私のここまでの人生は、充分にそうであったとはいえないかもしれません。しかし、私は、それを諦めずにいます。ですから、苦しむこともあるのですが、僅かであっても、善き変化に、楽しいと思える日々なのです。
