NO.1625
わたしは大根おろしを好む。和食料理にはつきものだが、辛くないものは食べない。大根おろしの持ち味はビリリとした辛さにある。子ども時代から大根おろしをよく食べた。熱いごはんに大根おろしをのせ、少し醤油で味付けして食べる。食欲不振のときなど、特有の辛さが食欲に刺激を与える。辛くない大根に当たるとがっかりする。
選挙敗北、自民党恒例の看板取り換え、石破おろしが始まった。どうせおろすならビリリとした結果を出してもらいたい。しかし、今回はいつもと少し違う形勢である。石破本人が、「私はやめません」と粘り腰だ。25日対米関税交渉報告の野党党首との会談で発言したそうだ。各党党首は、締まりのない表情を浮かべていたのではあるまいか。
執行部は、28日に両院議員懇談会を開催し、8月中に選挙総括をまとめる予定である。石破おろしを狙う面々は手順として懇談会ではなく、両院議員総会を開けとして必要な議員の頭数は揃えたらしい。石破おろしが実現しても誰が後継者にふさわしいか、これが大問題だ。麻生が石破では選挙に勝てないと語ったらしいが、いまの自民党には絶対に勝てる玉がない。
高市は極右だ。小泉など若手は軽すぎる。自公プラス国民民主で、玉木を担いでもいいじゃないかとか、下野して遠からず返り咲くことを期そうという見解もちらほら聞こえる。自民党はまさに窮地に立っている。石破おろしがもう一つ盛り上がらない。従来から繰り返してきた看板取り換えではすまないことが、さしも能天気な連中にも少しはわかってきたらしい。
そもそも、放漫暴走の安倍時代が長く続きすぎた。政治に関心があろうがなかろうが、人々の不満不信のマグマがぐんぐん大きくなっていた。訴求力に決め手を欠く立憲民主が政権交代を口にすると、奇妙な反動が自民を支えていた。皮肉にも、野田がホップ・ステップ論で足踏みしたので、もろに自民党への不満が形になった。もし、野田がそこまで読んでいたなら大手柄だ。
石破おろしの先頭に立ったのが旧安倍派の連中だが、自分たちが長年にわたって撒いた種が育ったと理解できないなら、救いがたい。昔の大人は、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり—沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」程度は、平家物語を読まなくても知っていた。これが真理でなくても、政治家たるもの自重自戒を忘れるならば壇ノ浦の藻屑になる。
選挙敗北が連続3回続いた看板は石破である。しかし、石破総理総裁になっても、たとえば裏金問題の失態を回復するために面々が誠心誠意尽力していない。むしろ、さらに重ねて批判される材料を作った。失敗のフォローが認められて信用が拡大する場合があるが、面々がやってきたことは責任逃れ、恥の上塗りでしかなかった。
石破おろしが成功してもしなくても、それ自体は全く何の問題改善にもならない。誰に自民党の再建を託すか。報道されている常連は、選挙の看板としては人気がない。力不足だ。まあ、わたしは格別自民党ひいきでもない。心配するのは、日本政治が泥沼から這い上がれず、さらに社会に悪影響をきたさないかということだけだ。
わが政治家すべてに言いたいことがある。もちろん、政治家だけではなくだれもが深刻に考えねばならない。哲学者ハンナ・アーレント(1906~1975)は、次のような主張をした。「現代は――大衆を組織する方法を知り得たならば、すべてが可能になると考える、人間の全能性を信じる人たちと、無力感だけが人生の主要な経験になってしまった人たちとに二分されている。この社会構造が全体主義を生む温床だ」(『人間の条件』1958)。
以来70年近く、この主張は噛み締める価値がある。わが社会もこの通りになってしまった。
選挙という仕組みによって、選ばれた人々が「全能性」の錯覚を深める。政党は、いかにして人々をその気にさせるか、手練手管を競う。情報伝達手段の進化が、政治のWhatよりもHowへの傾斜をそそのかす。かくして中身のない空疎な言葉の大洪水だ。SNSやユーチューブの活用テクニックの巧拙に回答があるのではない。
辛みのない大根を大量におろしても、絶対に辛くならない。政治もだ。
