論 考

『ちひさな王国』

筆者 小川秀人(おがわ・ひでと)

 文豪・谷崎潤一郎が1918年に発表した短編小説。後に『小さな王国』と改題された。十代で読んだ時には何を言わんとしているのか全く理解できなかったが、いま精読してみるとその奥ゆきに感嘆する。

 時世から見ればなお味わい深い。1901年に安部磯雄らが社会民主党を結党。また1906年には堺利彦らが日本社会党を結党(前者は僅か2日後、後者は翌年にいずれも治安警察法の適用により禁止命令)。国外では1917年にロシア革命が勃発と、谷崎翁がその世相を斟酌して書いたかどうかは玄人の論評に委ねるが、幾らかプロレタリア文学の匂いもする。

 主人公の貝島は教育熱心な小学校教師。病弱で伏せがちな母親と細君のために何かと物入り。月末には乳呑み児のミルク代にも事欠くほど生活が苦しく、家庭の空気も落ち着かない。ある日、クラスに沼倉庄吉という決して裕福ではないが、温和な性格の職工の子が転校して来る。この沼倉が、なぜか直ぐにクラスのリーダー的存在となって他の生徒たちを惹きつけていく。貝島は、自分になびかない子供たちが彼に惹かれる理由を探る。どうやって「王国」を築き上げたのか。

 やがて貝島は、同じクラスの自分の息子が、買えるはずのない餅菓子や扇子を持っていることに不審を抱く。なだめすかして微細に聞き出した末、この王国内で「沼倉」の認印が捺された贋札が発行され、駄菓子や玩具、雑誌などが取引されていることを突き止める。沼倉大統領令により、親から小遣いをもらった者はすべてその金を物品に換えて王国に納めなければならず、権力者として振る舞う沼倉に子供たちは誰も文句を言えない。

 最後には貝島自身も仲間に加わり、分けてもらった贋札で教え子の家が営む店でミルクを買おうとするが、ハッとして現実に戻り、店員に苦しい言い訳をするところで物語は終わる。学校という閉ざされた空間で仮想通貨による富の再配分が成立し、挙句には大のおとながバーチャルとリアルとの境界線を一瞬でも見失うところにゾッとするのは、我々がその真っただ中にあるからであろう。

 登場人物の人間模様を通して、当時の社会における権力構造、貧困や格差といった問題の本質を問うていると解釈すれば、現代社会もさして変わらない。そもそも人間はそれほど賢くなく、理性や知性には限界があることを、時を超えて示唆してくれている。やはり人間社会は実践や失敗から学ぶことで漸進的にしか変わらない。

 ひるがえって当節、偶発的に何ほどかの権力を手にした「社会正義戦士」気取りの御仁たちが「小さな王国」を駆使し、浅薄なデモクラシー的仕草で自分の功名心や我欲を覆い隠している様は笑止千万、片腹痛しである。

 はたして谷崎翁は、レーニンの革命や当時の日本で勃興した社会主義ブームを礼賛しようとしたのか。それとも、えもいわれぬイデオロギーの怪しさを表現しようとしたのか。多くの谷崎評にあるとおり、残された数多の谷崎文学作品群にそれほどの社会性は感じられない。いずれにしても明治、大正、昭和を生き抜き、1965年に79歳で鬼籍に入った文豪の目に、今の日本はどう映っているだろうか。