NO.1623
トランプがアメリカ・ファーストを「売り出した」とき、ホットドッグだかハンバーカーだかが大好きなおっさんらしい着想だと思った。こんなネーミングにはスーパーの特売的イメージが想像される。まったく安っぽい。赤いMAGAキャップをかぶって吠える姿は特売の売り込み並みだ。
わが参議院選挙にも、そのコピーのコピーが登場した。前評判では人気が高いそうなので恐れ入谷の鬼子母神である。日本の政治家を選ぶ選挙であり、どの政治家も日本人のために活動しない政治家は存在しない。大昔、幼稚園の先生が、「だれが一番かわいいかな」と呼びかけると、幼児たちが一斉に「ボク」「あたし」と駆け寄ってくる。幼児的センスのコピーにも見える。
ヘイトだという批判が出ると、反グローバルだと言い抜けようとする。それにしては、在日外国人が日本人に優先して処遇されているなど、あやしい低次元の話をまくし立てている。人々が政治を損か得かだけで文句を言いまくるようになったら、社会的連帯など望むべくもない。
ところで、わが国は1980年代の不動産バブルが崩壊して以来、30数年にわたってシャキッとしたところがない。そうした時代背景にあって、なんとか世直ししたいという声が高まる素地は十分にある。既存政党が精彩を欠く事情も重なって、いろんな動きが出て来たのであろう。
そもそもわが国の明治文明開化も、昭和敗戦後の民主主義も、内発的エネルギーによるものではなく、外発的な力に触発されている。社会の上っ面が変わっても、深層心理は変わりにくい。自分が主体的に変わろうとして変わらない限り、外発的に起きた変化は、時間の経過ともに熱が下がって、やがて昔ながらのなんとやらがお出ましになるわけだ。
「和魂漢才」という言葉が登場したのは、8世紀末から400年続いた平安藤原時代とされる。日本の固有の精神たる和魂で中国の学問を活用することの重要性を強調した。明治以降、これをもじって「和魂洋才」、こんどは大和魂でもって西洋の学問や知識を学びとることが強調された。現代は、和魂漢才から1200年余、和魂洋才から150年余過ぎた地点にある。
わが国固有の精神で外国の知恵を活用するというのは、抜け目のない表現である。外国の後追い、物まねをするという自虐的な気分が吹き飛んで、新たに漢才、洋才を止揚させる、発展的統合を日本的に作り出すという次第だ。別の表現をすると、「追いつき追い越せ」であるが、こちらのほうが、比較的率直な表現である。
大和魂とはなんぞや。これは容易につかみにくい。漱石さんは、日露戦争勝利で沸く世相を皮肉って、『吾輩は猫である』(1905~06)に、そんなもの誰も見たことがないと書いた。そんなもの信用できないという正論だが、恐るべし、1941年開戦から45年無条件降参した太平洋戦争においては、大和魂は死ねば神さまへのパスポートとなって、数々の特攻物語が生み出され、果ては、一億せん滅も辞さず、降参しない限り勝利は続くという一大ロマン! が真剣かつ真面目に論じられた。
わたしは1944年12月生まれ、そんな阿鼻叫喚の巷の事情など知らず、やがてのほほんと育つのだが、もし自分が物心ついた世代であったなら、竹槍もって最後の一人まで戦うべしなどとほざいていた可能性が高い。思えば心胆を寒からしめるではないか。
さて、1970年代後半には、ジャパン・アズ・ナンバーワンといわれてその気になった。追いついたのだから、次は先頭へという大和魂? もなくはなかったが、トップに躍り出るのは難しい。IBMコンパチブル路線でもたついている間に、ダウンサイジング。携帯電話以降みるみる距離を開けられた。考えてみれば、追いついた時期から冴えないこと甚だしい。
日本人ファーストとかなんとか、口当たりのよい話が飛び交うが、大和魂の地盤沈下は半端ではない。老人力のかけらも発揮できず、それでも世間のことはいつも考える。駄文を弄したが、わたしが衷心より若い世代に送りたいのは、気づかぬまま大和魂の呪縛に絡めつかれているのではなく、自主・自立・自尊心を自己中心主義と混同せぬように、人と人との間に壁をつくらないように、ぜひぜひ、考える葦であっていただきたい。
