週刊RO通信

政治にカネがかかる?

NO.1607

 政治にカネがかかる。正面切って言われると、そんなものかなあと思う。事実、国民は納税者である。だから、納税者が、政治にカネがかかるというのは全面的に正しい。しかし、それを政治家に言われたくはない。

 民主主義には、手間と暇がかかる。世間の人々は、いろいろさまざまであって、ある問題一つをとっても、意見がすぐにはまとまらない。問題に対する理解の度合いも違う。わかっている人が即断即決すれば早いが、誰がほんとうにわかっているのかどうか、話し合ってみなければわからない。

 そこで、政治ごとを決めるには、公開性と、議論を通して納得性を高めねばならない。手間と暇を要するわけだ。昔から保守人士のなかには、わが党が議会で多数を制しているのだからお任せ願いたい、と議論をパスしたい傾向がある。はじめから少数意見を切り捨ててしまう。

 しかし、これでは民主主義にならない。多数決と民主主義を同一視するのは大間違いだ。多数決は、もう議論するべきことがないところまで煮詰めてから行使するべきもので、時間潰しのために議論するのではない。議論の成果を期待して、国民は政治におカネをかけている。

 熟議の民主主義というような、わかったようなわからない言葉がしばしば登場する。議会は熟議が前提であるから、熟議が話題になること自体、政治家の精神的弛緩、怠惰が問題になっている。納税者にすれば、かけたおカネが妥当に使われていないから政治「家」不信を引き起こす。

 いまをときめく! 石破商品券問題の議論などは、時間を積み重ねるほど政治家不信から政治不信を拡大する。手間暇かけるから国民が喜ぶなんてものではない。聞けば、新人議員懇談会は、新人側が持ちかけて、予算案が衆議院通過する様子をみながら3月3日に設定されたようだ。

 かねてより石破側近議員が、「どの政権でもやっている」商品券配布くらいはやるべしと、石破氏に進言していたらしい。そこでケチとの評判が高い石破氏が「前例にならって」商品券を配布した。ことが露見するに及んで、官邸側も党側も頭を抱え込んだという。ダメなことはわかっているのだが、ポケットマネーと慰労目的のへ理屈で、嵐が過ぎ去るのを待つ作戦だ。

 ところが時間を重ねるほど、歴代自民党内閣の習慣ではないか。ポケットマネーの出どころは内閣官房報償費ではないか。など、話が収束するどころか拡大している。石破氏は腹を括らねばなるまい。

 内閣官房報償費は、15億円前後あるらしい。かねてよりろくな噂のない代物だ。国政の運営に必要な場合、官房長官の判断で支出する。しかも領収書不要の大盤振る舞いである。使い道を公開しないから、なるほど使う分には便利この上ないが、疑惑が高まると商品券レベルでは収まらない。

 政治家が、政治にカネがかかるという場合、伝統的には「清き一票」を買うためにカネが必要だった。男子普通選挙法が成立したのは1925年(大正14)である。選挙権、直接国税3円納入の条件が取っ払われて有権者は一挙4倍に膨れ上がった。

 当時の法定選挙費用は1万2千円、実際は、普選前は2~3万円使っていたが普選後は7~8万円に増えた。選挙ブローカーといえば、現実に票を取りまとめする「業者」であって、一票平均3円程度で売買していた。

 金権ぶりは戦後民主主義になってからも、おおいに発展? する。1960年安保騒動で岸信介内閣が倒れ、池田勇人が自民党総裁に選出されたとき、スポンサーの財界は約8億円を提供、札束が乱れ飛んだ。同11月総選挙では、法定選挙費用は81万円であるが、自民党議員は「二当一落」、2千万円なら当選、1千万円では落選といった。1965年総選挙では、選挙費用が社会党議員は3百万円程度、自民党議員は1億円程度であった。

 安倍内閣の桜を見る会、小渕議員の観劇ツアーなど、21世紀に入ってもなかなかお盛んである。票を売買するような話は聞かなくなったが、民主政治以前の政治体質がしぶとく根を張っていて、その端っこが石破商品券問題に通じているのではないか。いずれにせよ、「政治にカネがかかる」と嘆くのは政治家ではなくて国民である。公開性と納得性をしつこく追求することしか、政治を進化させる方法はないと確信するべしだ。