筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
しばらく報道も目立たなかったが、韓国の尹大統領(職務停止、拘置中)に関する弾劾裁判の最終弁論が2月25日におこなわれ、3月中旬に判決が出される見込みである。
尹側は、戒厳宣言が文字通り宣言であって、実力行使をするつもりはなかったということを弁明してきた。なにがなんでも弾劾を避けたいという狙いだ。
しかし、戒厳宣言が国家による実力統制を国民に課するものだから、口先で理屈を展開することは可能だが、説得力がないだろう。
与党国民の力は、野党共に民主党の偏った政治性を批判する戦術であり、一時期はかなり世論形成に成功しつつあったが、裁判の進行によって、その限界が示されたようである。
与党は、表向きは弾劾反対を大声疾呼しているが、一方では、すでに早期大統領選挙を想定して、実力者数人が立候補表明をしている。
メディアは、与党は「昼は弾劾反対を強調し、夜は大統領選挙モード」であると揶揄している。
そこから読めるのは、与党も尹弾劾判決が出される可能性が強いと踏んでいるのであろう。
尹もまたトランプ方式にあやかって、ユーチューブの偏向情報に期待したのだが、韓国の人々を欺き通せなかったということになろうか。
古今東西、とりわけ政治にはデマや偽情報がつきものである。それを見破るのは、まさに国民各位が真偽を見極める力を持つかどうかに尽きる。その能力の高さが、いわゆる民度というものだ。
昔は、民度の高さを識字率で評価した。ただし、それは単純すぎる。文字を知るということは、知識を増やす大きな力であるが、一方、情報に欺かれる隙間を増やすことでもある。
たとえば、時間を巻き戻してみる。わたしの子供時代、宣伝・広告の類の価値は非常に低かった。人々が、おいそれと飛びつかない。真偽を見抜く野生の! 力を持ち合わせていたのかもしれない。
戦後ジャーナリズムを引っ張った大宅壮一(1900~1970)はテレビを称して「一億総白痴化」と批判した。それに対して、思想家林達夫(1896~1981)は、「違う。テレビから人は学んで利口になる」と反論した。
どちらもある面をとらえているが、正解ではない。
要するに、さまざまな技術革新は、人々の生活を便利にはするけれども、それ自体が人々を賢くするのではない。人間は学ぶ力を持っている。しかし、それを育て、活用するかどうかは人それぞれである。
いかなる「それぞれ」が多数を占めるか。それが時代の民度なるものだろう。
