週刊RO通信

野党は本気と根性をもて

NO.1595

 「少数与党では、野党に賛成していただかなければ、予算も法案も通すことはできない」と、石破氏は語った。さきの総選挙結果から、与党に対する野党の立場は相当強くなった。そこで野党各党が、石破氏の神妙さを前にして、どんな心構えをするべきだろうか。油断大敵、敵は自分自身である。

 過去の選挙で野党が伸びた理由のほとんどは、与党自民党の失態にありというべきであって、野党各党が地力をつけてのし上がったのではない。今回も同じである。地力がついていないから、時間の経過とともに自民党の失態は過去のものとなって、またまた野党の存在感が薄くなる。

 たまたま『村山富市回顧録』を通読した。村山氏は社会党の委員長であったが、1994年6月30日から96年1月11日まで、自民党(橋本竜太郎)・新党さきがけ(武村正義)との3党連立で首相を務めた。

 93年宮沢喜一内閣がリクルート事件で吹っ飛び、同8月日本新党の細川護煕氏を首相に、社会党・新生党・公明党・宮社党・新党さきがけ・社会民主連合・民主改革連合の非自民・非共産7党1会派の内閣が発足した。55年以来38年間、単独政権にあった自民党が初めて下野した。細川政権は新鮮さが受けて期待を集めたが、わずか263日間で崩壊、さらに短期間の羽田孜政権を経て、村山政権が誕生したのである。

 95年1月17日には阪神淡路大震災が発生した。細川内閣が寄り合い所帯のごたごたを乗り切れず短期間で崩壊したのと比べると、村山内閣では自民党が辛抱して内閣を支えたのが目立った。村山氏は、社会党が政権党として十分な心構えと実力がなかったことを率直に反省している。

 「村山談話」は、95年8月15日に戦後50年の節目にケジメをつける覚悟のもとに発表された。同氏の思いは、日本が独善的ナショナリズムを排して新たな針路を歩むべしとするにあった。少なからぬ右翼議員を抱えた自民党が、村山談話発表を支えたことも、やはり特筆すべきであろう。

 当時、すでに社会党は解体過程へと走っていた。沈没する船から逃れようとするかのように浮足立った社会党議員に政権担当能力で目立ったものはない。村山氏の回顧は、人柄もあって淡々とした内容であるが、乾坤一擲の勝負どころで目にもの見せられなかった慚愧の念が滲んでいる。

 自社は1と1/2の関係であったが、1980年代いっぱいまで、社会党は二大政党の片方であった。しかし、わたしの見るところ、社会党の退潮はすでに1960年代から明らかに進んでいた。60年は、反安保闘争と三井三池の大争議がまさに国論を二分する勢いであった。社会党・総評ブロックは両闘争に勝利できなかったものの、大きな刻印を残した。

 それ以後70年代いっぱいは、国論を二分した闘いの後始末で、保守対革新・経営対労働の関係修復、融和的な動きが目立った。70年代は戦後の労使関係でもっとも安定した時期であった。ただし80年代に入った当時、わたしはいたるところの講演で「新しい緊張関係」の創造を訴えた。なぜか? 労使関係の安定というよりも弛緩が目立ってきたからである。

 社会党は世の中を変革する側という印象がばらまかれていたが、典型的な議員政党で、党活動らしきものは選挙時以外にはほとんど見られなかった。64年「成田三原則」で、日常活動の不足・議員党的体質・労組依存の問題が指摘されたものの、まったく問題解決に手が付けられなかった。選挙活動だけの政党であった。村山氏によれば、党活動といえば派閥活動に生きがいをもつような体たらくであった。なんのための政治か、わかっていない。

 人々に働きかける政党としての活動がない。組合に対しても、選挙のときだけのお付き合いで、政治学習を盛り立てるような手立てをとるわけでもない。労使関係が安定し、社会が安定すればイメージだけの変革性などは雲散霧消する。70年代後半、保革の峻別が困難になっていた。社会党としてのアイデンティティを押し出さねばならないが、それができなかった。

 さて、社会党後の各野党は、果たして社会党がはまり込んでいた泥沼的状態を克服しているだろうか。ほとんど変わっていないだろう。政党としての太い柱がないから小手先の活動に停滞せざるをえない。それはすぐ馬脚が現れる。「成田三原則」を過去のものとし切れていないのが大問題である。