NO.1587
自民党のみならず、与党でも過半数を獲得できなかった。石破氏らが政権を手放さないために、なりふり構わず数合わせに走るのは事前に予想された。その際、野党がいかなる見識に基づいて行動するか。
これはまず、今回の選挙に示された民意をどのように受け止めるか。低かった投票率は、政治に対する不信、不満、そこから生ずる政治的無関心の拡大を示している。だから、たまたま躍進した立憲民主党も、大躍進した国民民主党も束の間の勝利に浮かれてはならない。わかっているだろうが。
政治も経済も1990年代以後30年余、下降と沈滞傾向にある。しかし、政治とカネ問題が全面的に押し出されたからだとしても、政治家諸君から日本的状況に対する危機感が伝わってこなかった。いかにも軽薄だ。
選挙戦は立派な見識を示すよりも、なにがなんでも勝たねばならない。ただし選挙に勝つのは、立派な見識を政治に反映するためである。日本政治の来し方、今後の在り方をしっかり考えて政局に対処する決意があるか。
今回は千載一遇ともいうべき、政権交代の可能性があった。維新・馬場氏は、自党の準備不十分と語った。謙虚にみえなくもないが、小たりといえども政党はすべて政権政党たろうとする。ひごろ大言壮語していることからすると、いざレース本番目前に棄権するようなものだ。
維新は、全国展開路線の鼻っ柱が折れて、代表交代論が出ているから、それどころではないのだろう。しかし、なんとしても政権を維持するのだという自民党と比較すると、なにやら急に尻尾を巻いたみたいである。
一方、議席4倍増の28人となり意気上がる国民民主は、断固として「ゆ」党路線を脱するかと思いきや、野党間協議を差し置いてまず自民党と協議に入った。めでたく、石破首相存続の伴走者にあずかったわけだ。
たまたま予想外の大勝利であったから、こちらもまた維新と同じく準備不十分であって、従来路線を歩むようだ。なるほど謙虚であるが、同じ旧民主党の流れをくむ立民の後塵を拝したくないという意識では度量が狭い。
玉木氏らは、「ゆ」党にあらず、自民党補完勢力にあらず、対等であると胸を張るが、石破首相指名を実現するために、自民が国民に呼びかけたのであって、いよいよ用が終わっても対等が維持できる保証はない。
国民は立民との共闘について、立民が共産と組むからアウトだと言い続けてきたが、せっかく友党とともに政権獲得の好機を迎えながら自民優先に走ったことをみると、本心は「ゆ」から「よ」にあったとみられる。
ここで、玉木氏が拳拳服膺せねばならないのは、今回4倍増したのは、自民党補完たれという民意ではなかったことだ。多くの人々が、早々の自民との協議について裏切られた思いをもっているとしても不思議ではない。
反自民の一翼にありながら、ただちに自民に接近したのは、「とれるときにとる」と理屈づけするにしても、実は自民党コンプレックスの本音が露見したとしかみえない。与党は自民、というマンネリ野党的意識でもある。
とりわけ、働く人の政党たる矜持はどうするのか。「とれるときにとる」というのは、失敗した、狭い意味の労働組合主義そのものだ。これでは、大衆を政治的無関心から脱出させ、民主政治を育てる作用が弱い。言葉を代えれば、政党が政治的官僚機構のパーツに堕落してしまう。
わたしは、働く人の労働観として、labour⇒work⇒actionを提唱してきた。仕事は、賃金のみ⇒個性の発揮⇒社会的存在の三段階で、社会的存在こそ志向するべきだ。理想論ではない、これが勝負だ。
「とれるときにとる」路線は、labourに停滞することである。もちろん、物価高、生活苦に対する不満は大きい。しかし、働く人は、衣食住に事欠かなければすべてよしというような負け犬根性を是としてはいない。
これは、日本の労働組合運動が、戦後の飢餓賃金時代に取り組んだ、「食えるための賃金よこせ」という路線に逆戻りする考え方である。しかも、この飢餓賃金闘争路線は大昔に破綻している。
人はパンがなければ生きられないが、パンを食べるために生きているのではない。働く人の展望からすれば、立民と国民が働く人の政党として大きく成長してほしい。政治的無関心の脱却という視点を失ってはいけない。
