くらす発見

心静かに本と向き合う

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

 選挙の余韻冷めやらず、石破氏らは新たな合従連衡に着手、権力維持に余念がない。ポーズはともかくもすぐに飛びつきそうな表情の野党政治家もいる。政治の世界は大変だとつくづく思う。

 わたしは大昔に引っ張り出されそうな気配を感じて遁走したことがある。われながら職業政治家を選択しなかったのは上等であった。実際、政治家の皆さんはよくも大変な仕事に熱中されることだ。(嫌味ではありません)

 こんな殺風景なことばかり考えつつ、本日の読売新聞の「秋の読書月間 心静かに本と向き合う時間を」と題する社説が目に止まった。

 行事社説(こんな言葉があるかどうかは知らないが)で、中身も新鮮なものはなにもないのだが、「心静かに」という月並みな表現が妙に印象的である。

 なぜか? まさに年がら年中心静かでいられないからだ。わが身辺で騒音がけたたましいのは事実であるが、自分が心静かに「ある」かないかは自分が選んでいる。うむ、いかに厄介な世相にあろうとも、心静かにありたい。いや、あらねばならない。

 読書が必然的に心静かになるとは限らない。読書には集中力が必要だ。集中力というのは、わたしの場合、心静かという表現が似つかわしくない。あえていえば集中力は気合であって、眼光炯々になるのではないか。眼光紙背に徹すとまではいかずとも、書いてあることの意味をつかみ取ろうとすれば、やはり、気合を入れねばなるまい。

 ある読書家にして博学のジャーナリストが、勉強せにゃいかん、なにかをつかみ取らねばならぬという心理を無視して、ただ読書する楽しみを感ずることはめったにないと述懐した。なるほど、力まず、肩肘張らずに読む。つまりは無償の行為ということじゃないか。これは大変難しい読書態度である。達人である。

 生きているのだから、山中か無人島にでも隠棲しないかぎり、浮世のわずらわしさ、面倒から逃れられない。だから、束の間の静謐を得るために読書するのだろうか。そういう態度もあるが、わたしは好まない。

 「心静かに」が意味するのは、自分を凝視する、あるいは日常些事を横へ置いて、読書をしながら自分の考えをかぎりなく自由に羽ばたかせるという意義かもしれない。

 わたしは本を読みながら、著者と対話している心地がしたとき、嬉しい。本の中には大きな世界がある。ものぐさの自分にとっては、非常にありがたい。

 本を読んで共感したり、大事なことに気づくとメモをするので、「心静かに」読書していても、感情の動きは小さくない。集中したあとは、心地よいが、かなり疲労を感ずる。どうも、読書もまた体力を必要とするみたいである。

 最近は目の調子がよろしくないので拡大鏡も脇に置いている。