論 考

不気味な官僚主義に負けない光

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

 袴田巌さんについて、検察が控訴しないと発表したので、無罪が確定した。よかった! のではあるが、わたしは、割り切れなさとおぞましさで腹が立つ。

 畝本検事総長の発言要旨は、――捜査当局が証拠を捏造したと認めた再審判決について、(その)証拠や根拠が示されていなので不満である。控訴すべきだが、(袴田さんが)長期間にわたる法的地位が不安定な状況に置かれていたことにも思いを致した。その状況が継続することは相当でない――から控訴しないのだという。これでは、まるでお情けみたいじゃないか!

 58年間にわたって自由を奪っていた人に対して、言葉にまったく血が通っていない。まさに、検察マシン、検察ロボットではなかろうか。

 当局が、証拠を捏造したという証拠や根拠を出せというが、弁護側はすでに証拠を提出しているから再審が可能になった。捏造した証拠が覆されたのに、さらに証拠を出せというのでは終わりがない。

 朝日社説(10/9)は「袴田さんの無罪判決 この不条理から何を学ぶか」とご立派な見出しを掲げたが、学ぶ気なんかありませんよ。学ぶ気がない連中、それも尋常ではない優秀な頭脳の方々を前提して、こんな大所高所論が通用するのであれば世話はない。

 厳しくいえば、徹底した官僚システムの警察・検察においては、「反省」がない。官僚組織において、反省する機能=フィードバックがなければ暴走するだけじゃないか。それが検事総長の発言に示された。

 カフカの『城』を読んだのがいつだったか忘れたが、あの不気味で、読んでいてじりじりする焦燥感、どこにもぶつけようのない腹立たしさに似ている。袴田さんは作中人物ではない。生きた人間である。

 官僚主義が組織を支配するだけでなく、それが社会を支配することになったら暗黒だ。無力の「私」なんか、組織に関わらないようにするしか活路はない。

 いや、待てよ。検察・警察だけではない。公務員だけではない。世間の人々が属している組織はいずれも官僚機構である。日本全国隅から隅まで官僚思想・官僚主義が浸透しているのではないか。わたしの感じ方にすぎないが、わたしの人生時間のなかで、時間が後になるほど官僚主義の蔓延を強く感じている。

 ニーチェいわく、「かれらが着ているものは一律に制服と呼ばれている。そのなかに包まれているものまで一律であってはならぬ!」。然り。

 もうひとつ、袴田秀子さんの笑顔を見て、発言を聞くと、すべてを受け止めて恐れない雰囲気を感じる。魯迅は、「絶望に絶望する」といった。希望がはかないものであれば、絶望もまたはかない。それを秀子さんは実践されたとわたしは思う。カミュの描くような世界に負けてはいかん。秀子さんは世間の人々に偉大な光を見せられた。