筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
▽刺激薄い首相の辞任
岸田氏が9月の自民党総裁選不出馬を発表した。同氏が身を引くのは、低い支持率によって、党内の岸田離反が決定的になったことが最大の理由である。
岸田氏自身は、歴代首相に遜色ない仕事をやったという自負心がある。だから、いかに政治とカネの問題があるにせよ、支持率の低さが納得できない。記者の支持率にふれた質問に対して憮然とした表情を隠さなかった。
なんとしても自民党への不評を克服するために、新生自民党として国民的共感を得られ、政治改革を後戻りさせない人の次期総裁になってほしいと語る。(そんな人物が存在するのだろうか?)
次期総裁選に出馬しないと決意を述べたのに、記者会見の雰囲気は冷めていた。多くの国民も格別の感慨が湧かなかっただろう。いま名前が挙がっている人々が取り立てて斬新な感じでもない。
自民党の表紙の差し替え程度で、人々の政治意識が向上するとは考えにくい。そこで、人事のちまちました政局問題とは別に少し考えてみた。
▽政治文化の価値
哲学者ハンナ・アーレント(1906~1975)は、人間の行動の質を、「labor(労働/機械的な営み)→work(仕事/工作・技芸)→action(活動/政治、芸術、学問)」の3段階に区分した。
「生活のための労働→個性発揮する仕事→社会性ある活動」という文脈である。
いずれも人間生活に必要不可欠であるが、actionこそが社会性・公共性ある段階であって、これがもっとも価値があると規定した。
つまりロウプラウ(lowbrow)から、ハイブラウ(highbrow)の一連の流れを意味してもいる。政治、芸術、学問はいずれ劣らぬハイブラウ、文化の神髄へ接近する営みのはずである。
ところで、わが国において、政治がハイブラウだという認識があるだろうか? 「否」がおおかたの見解、社会通念である。まったく不細工な話だ。
自分から手を挙げて政治家の道を志している方々が、自他共に認めるハイブラウな政治をめざして奮闘しているだろうか? 客観的には「否」だ。
雑巾がけの丁稚時代であるにもかかわらず、総理大臣をめざすと大言壮語する人がいる。海のものとも山のものとも、いや、玉か石かの判別不能であるから、志は高くて構わないが、その志たる中身がカラッケツでは、お話にならない。
本音は、政治家でごはんを食べる。すなわち看板action、実はlabor段階にしか関心がないみたいである。
政治家に就職するためには、選挙という試験がある。これに落ちては政治家になられないから、選挙活動には必死である。そして、当選すれば、目的は達成されたという無意識の意識が全面的に支配する。
会社でもそうだが、無難に勤め上げることを第一義とすれば、自分の仕事にこだわってさらなる挑戦をしようという根性が沸かない。たまたま仕事で期待される以上の成果をあげたからといって、今後の勤めに全面的有益とはいえないという組織的経験則を誰もがよく知っている。手柄を立てれば立てたで、あちらこちらから足を引っ張られる危険性がある。出世に必要なことは仕事師たることではない。どなたさまにも、「いい奴だ」と思われることほど強い味方はない。
まして、政治というもの、決まった成果があるわけでなし。突っ張るか、のらりくらりでいくかと思案すれば、たいがいは後者を選ぶ。実際、それがわが社会・すべての組織での処世訓、大人の態度である。
つまり、政治家になって、自他とともに自身を鼓舞し政治生命をかけるような雰囲気=文化はまったく存在しない。かくして改革なる言葉が道端のたたき売り並みに発せられる。うまくもない改革バナナが売れるわけはない。
一つの簡単な事例をあげよう。自民党政権はひたすら米国追従路線を邁進し、分不相応な軍事費を積み上げている。そもそも、軍事費はまっとうな経済活動ではない。投入資本がほとんど新たな価値を生まない。1960年代前後の高度経済成長の隠れた主人公は「低い軍事費」にある。いまやっていることは当時と正反対、どんどん低成長へと自縄自縛を重ねている。
さらに、積み上げた軍事費が本当に国民と国の安全確保に寄与するのかどうか。25万人ほどの自衛隊が日本全体を守られるか。ミサイル防衛に躍起だが、どんな事態を想定しているのか。なによりも、世界中を眺めてみて、軍事費を積み重ねてきたにもかかわらず、戦争はなくならないし、一朝ことあるときに、直ちに消火作業が成功した、というような事例はどこにもない。戦争は、始まればとどまることを知らず拡大する。
しかし、議会でこのような素朴な! 質問を展開し、議論を戦わせようとする議員はゼロである。目立たない・におわない、これぞ日本政治の風土である。
先日、高井潔司さんが日本の政治文化について言及されたので、少し考えてみたのだが、果たして、actionを意識している政治家がどのくらい存在するだろうか。議会の質疑といっても、枝葉末節にとどめを刺す、天下国家の行く末にかかわるような問題が論じられている気配がない。
日本の政治文化は、キッチュ、いわくまがいもののそしりを免れない。なおかつ本物へと育つ可能性を感じさせてくれない、というのが本日の診断である。人々が、こんな政治を信頼しないのは当然である。9月の自民党総裁選で政治文化が変わる可能性は皆無である。
▽無力感が支配する
なぜ、こんな停滞感なのか? 再びアーレントの鋭い指摘を紹介する。
「現代は、大衆を組織する方法を知りえたならば、すべてが可能と考える、人間の全能性を信ずる人たちと、無力感だけが人生の主要な体験になってしまった人たちとの間に、人類は二分されている。――この社会構造こそが全体主義の温床なのだ」。
全体主義という厄介なものは、権力支配国家だけの専売ではない。民主主義を大切に高唱している国においてもすぐに暴れ始める。トランプ的アメリカの人々の排他的熱狂ぶりは十分に全体主義である。トランプは自分の欲望を包み隠さない。人々は、にもかかわらず熱狂する。
ワンフレーズ・ポリティックスに熱くなるのも同様にきわめて危ない。それらは、自分の気持ちが受け止められているという壮大な錯覚の産物である。
政治のキッチュ文化! から抜け出すのは容易ではない。時間がかかる。時間をかけても抜け出せるとは保証できない。それは1人ひとりが担わされている課題だからである。
辛亥革命後、中華民国が立ち上がった1912年、魯迅(1881~1936)は語った。「封建制を打倒する革命は比較的容易だった。しかし、民主革命は容易ではない。なぜなら、国民1人ひとりの成長が不可欠だからだ」。
それから100年余、日本ではまったくその言葉が当てはまる。さらにいえば、民主主義先進国といえども、油断、手抜きがあれば、いつでも民主主義はぐらぐらする。
わが国は敗戦から79年、近代国家以来の歴史的体験があまりにも無視され過ぎている。民主主義の脆弱さと、大日本帝国時代の思想がしたたかに残るのは表裏一体である。キッチュな政治文化を嘲笑することはいくらでもできる。しかし、それは、実は、自分自身に起因することを忘れまい。
