論 考

政治の無責任と自衛隊

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

 わが国の安全を守ると大言壮語するのは政治家である。しかし、本当のところ、守るのは政治家ではなく、自衛隊である。もう一つ、わが国の安全の要中の要として沖縄がある。

 両者は、万一にせよ、いざ戦争事態になれば、まっさきに危険の渦中に放り込まれる。この二つを外しては、わが国の防衛は成り立たない。いわば、わが国の防衛概念の具体化は、この二つに象徴されている。表現を変えれば、政治家によって丸投げされている。

 わたしの単純な頭では、2.4万人の自衛隊がわが国民を守るというのは手品にしか見えない。かつて自衛隊の中堅の一人に、「本当に守ってくれるのですか?」と質問した。彼は、「わたしたちが真っ先に死にます」と回答された。婉曲であるが、死んでしまうのだから、「守れません」と答えたのだと思う。正直で納得できたので、それ以上は突っ込まなかった。

 敗戦から79年すぎたが、客観的にわが国の究極の防衛論! は、相変わらず「一億玉砕」論らしい。玉砕しても降参しなければ敗けない。安全は守られなくても「国(民)としての誇り」は維持されるようである。たぶん、いまさら一億玉砕など、だれも心配はしないだろう。杞憂であろうか。

 しかし、いつ戦争が開始しても不思議はないと喧伝するのは政治家である。その割には優雅にやっておられるらしく、自民党以外に維新の内紛的事情においてすらも、東京の幹部連が永田町で酒を飲み過ぎてケジメがなくなったと批判している。

 こんな調子だから、海自接待騒動もさほど不思議ではない。敗戦までの軍部では、天下国家を論じて盃を打ち合わせ、悲憤慷慨しては乾杯、また乾杯。これ、思うに死を覚悟した極度の緊張と、ともすれば惰弱に流れやすい意識をなだめすかして「気合いだあ」と葛藤を繰り返していたのでもあろう。

 いま、戦前軍部のように、国政を論じて暴れまわることはなくなっている(らしい)が、率先垂範死におもむく気持ちが四海波静かであるわけがない。

 自衛隊の組織の緩みを指摘する論調もあるが、緩みっぱなしの政治家によって安全を丸投げされていることを思えば、この国の政治家をなんとかせねばならないという動きが出ないのは、まことに幸せだろう。

 政治家が軍備拡張に精出すのは、なんのことはない、政治によって平和を作り出そうという気概も努力もないことを示している。

 わたしの常識としては、日本人はかつてのような戦争国家を望む気性はない。自衛隊と沖縄という二大手品が通用しなくなることを考えない政治家は、海自接待問題よりも、本質的にもっと深刻である。