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民主主義の原理/自治の力

奥井禮喜

末川博が見た暗黒時代

エリートの旧制高校

 旧制高校は1894年(明治27)の高等学校令によって設置された。大学の予備教育を施す目的で作られた。1908年には官立旧制高校は一高から八高まであった。順番に、東京・仙台・京都・金沢・熊本・岡山・鹿児島・名古屋である。学生帽に白線が2~3条入るのがその証明で、学生たちのあこがれであった。旧制高校生はエリート候補生である。帝国大学へのパスポートが与えられるので、受験は非常な難関であった。1950年に大学教養課程に編入された。

 末川博(1892~1977)が三高(京都)に入学したのは1911年である。まだ日露戦争の余韻が残っていた。同年1月、大逆事件の判決(非公開)が下りて24日に幸徳秋水(1871~1911)はじめ12名が処刑された。後にいう大正デモクラシーが高揚していたが、暗黒時代である。翌年、明治から大正に変わるのである。

自由ってなんだ?

 一高(東京)の校風は「自治」を旗印としていた。三高は「自由」が校風で、学生たちは盛んに自由を口にした。たとえば夏目漱石(1867~1916)が学習院で「私の個人主義」という講演をしたのが1911年である。「国家が危機になれば個人の自由が狭められ、国家が大平になれば個人の自由が膨張する」、「自分が生きたい課題を見つけてそれに向かって邁進しよう」、だから「まず個人主義、そして国家へ、世界へと進むべきだ」という内容である。

 知らずしらず自由への気風が高まっていた。進取の気性に富む高校生たちが、「自治」「自由」という旗印に共感していたのである。末川博は、中学時代に教わった、アメリカ独立革命のリーダーであるパトリック・ヘンリー(1736~1799)の「われに自由を与えよ、しからずんば死を与えよ」(Give me liberty or give me death)という言葉を記憶していたが、出身地は山口県であり、勤皇・軍国の気風が強いなかで育ったから、いまひとつピンとこない、自由の意味にまだ手応えを感じていなかったと書き残している。

 大日本帝国憲法には、第20条に「兵役の義務」、第21条に「納税の義務」がまずあって、第22条で「住居移転の自由」、第24条「裁判を受ける権利」、第26条「信書の秘密を侵されず」、第27条「所有権を侵されず」28条「信教の自由」、第29条「日本臣民は法律の範囲内において言論著作印行集会及び結社の自由を有す」などが規定されている。

 しかし、出版法(1893)、行政執行法(1900)、治安警察法(1909))、新聞紙法(1909)によって、言論・出版の自由はないし、労働者の団結・同盟罷業も禁止されていた。自由とはいうものの、「安寧秩序を妨げず、臣民たる義務に背かざる限り」というのであるから、行政官が気に入らなければジャンジャン取り締まられるのであって、自由などなきに等しいのが現実であった。

 なにごとも「法律の定めるところ」、「法律の範囲内」、「安寧秩序を妨げず」などの前提条件つきである。なんといっても「臣民」の権利であるから、お上が臣民に《恩恵》として下しおかれるのであって、いまの日本国憲法のさまざまな自由と比較すると、天地の差がある。つまり臣民には基本的人権が全然なかった。大日本帝国憲法でも、自由と民主主義を発展させうると述べた学者もいたが、そもそも自由と民主主義の憲法ではないのであった。

 明治維新で封建時代が終わったというが、チョンマゲ時代が終わったとしても、政治権力の専制に関してはますます厳しくなった。とはいえ幼児から専制政治社会で育つのだから、人々の気分は、まあこんなものだというわけだ。また、自分が直接圧力を食らわなければ大きな矛盾の渦中にあっても気づかない。「自治」にせよ「自由」にせよ、目に見えない概念であるから、「なにか変だな」とか「これでよろしいのか」という問題意識が芽生えなければ、その意味に気づくことができない。末川博の体験が物語っている。

憲政護憲運動を大衆が支えた

 末川博は、1912年、三高2年生のとき、たまたま憲政擁護運動の演説会に行った。当時は、維新の元老――山縣有朋(1838生 長州)、井上馨(1835生 長州)、松方正義(1835生 薩摩)、大山巌(1842生 薩摩)、西園寺公望(1849生 華族)、桂太郎(1847生 長州)――が薩長藩閥政治をおこなっていることに対する批判が強かった。大日本帝国憲法ができたのだから、立憲政治をやるべしという気風である。元老の年長が77歳、若くても63歳であるから、当時としてはまさに年齢も元老であった。

 陸軍の2個師団増設要求を、西園寺公望首相が財政事情によって拒否すると、陸軍大臣・上原勇作(1856生 薩摩)が辞任。後任の陸相を据えられず西園寺内閣が総辞職。後継に陸軍大将・桂太郎が第三次桂内閣を組織した。今度は海軍が海軍拡張費用を要求してごねた。議会中心の議論がなされず、藩閥政治のゴリ押し、談合政治に対して憲政護憲運動が立ち上がった。

 護憲運動の中心人物は、後に「憲政の神様」と讃えられた尾崎行雄(1858~1954)と32年5・15事件のテロに斃れた犬養毅(1855~1932)であった。2月5日、内閣不信任案を提出した尾崎は、「口を開けば忠君愛国を唱え、忠君愛国といえば自分たちの専売の如く、常に玉座の陰に隠れて政敵を狙撃する。玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に替えて政敵を倒さんとするものではないか」と痛烈批判した。有名な演説である。権力を握った連中が好き放題やっていた天皇制の核心的問題点を突いている。

 桂首相は詔勅で不信任案を潰す。まさしく、尾崎演説の通りをやった。これが院内外の護憲派を怒らせた。護憲派は、上野や神田で桂内閣批判の大集会を開催したのである。末川博が聞きに行った演説会は、弁士が演説すると直ちに警察官が「弁士中止」とやる。いったい、これはなんだ! 言論の自由がなければ言いたいことが言えず、聞きたいことが聞かれないではないか。新聞・雑誌なども発行停止、発禁が多くなっていた。さらには抗議の暴動も発生した。

 桂内閣は大衆の声に耐えきれず、2月11日、総辞職を余儀なくされた。大日本帝国憲法のもとで、大衆の声によって内閣が総辞職したのはこのときだけである。まさに大正デモクラシーの一大昂揚が見られた。末川博は、「パトリック・ヘンリーの気持ちが次第にわかるようになった」と述懐している。

圧制に拍車

 ところがこのまま引っ込まないのが権力のおぞましさである。言論には言論を以て対峙するのがルールであるが、権力を握っているとどうしても傲慢になる。ましてデモクラシー思想の時代ではない。力で抑えようという安直な方向へ走る。大正末1925年になると「治安維持法」が作られた。いわく「国体の変革、私有財産制度の否認を目的とする結社活動・個人的行為に関する罰則」を定めたのである。封建主義思想に逆戻りだ。さらに、後41年になると共産主義運動に対しては、極刑で臨むという、強硬な弾圧法に変えられるのである。弾圧が、さらなる弾圧を生むのである。

 1923年9月1日の関東大震災で、朝鮮人虐殺事件が発生した。不逞鮮人が暴動を起こすというデマが官憲によって流され、民間人が暴発し、6千人も殺害したというが実態は不明である。亀戸事件で数百人の労働者が軍人と警察官によって殺害された。無政府主義者・大杉栄(1885~1923)らが虐殺された。実行犯は憲兵大尉・甘粕正彦(1891~1945)らである。甘粕は、罰せられることもなく満州へ渡って暗躍する。社会不安を煽っておいて、社会不安だから治安維持のために圧制を強化するという典型的な権力の陰謀戦略である。

《よく似た手口》

いま、自民党が改憲草案において「お試し改憲」として、憲法第98条(新設)に、「緊急事態」を掲げている。いわく――内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。――

 さらに緊急事態を宣言すると、内閣は自由に政令を発せられる。財政を自由に行使できる。地方自治体の長に指示を発することができる。そして、この状態になると国民は公の指示に従わなければならない。(第99条)

 まったく問題の性質が異なる外国の武力攻撃・内乱・自然災害をひとくくりにして、緊急事態とする。すなわち治安維持法であり、戒厳令を敷くのと同じである。内乱の定義を誰がなすのか。内閣によって、政治的抗議のデモンストレーションが、内乱と同一視される危惧は極めて大きい。緊急事態の宣言を発すれば、政府はなんでもできる。国民を守ると称して、実は基本的人権を無視する思想が明確になっている。これは、ナチスがワイマール憲法下でやったことと酷似している。

 やがては忠君愛国、国体明徴、大政翼賛、一億総決起などの掛け声に対して、少しでも反対するような言動をすれば、アカ呼ばわりされ、非国民扱いされた。学問の世界であっても、資本主義体制に関する分析・論評や、社会情勢、外国事情などを発表するとしょっ引かれる。演劇・映画、俳句の仲間、天皇教ではないからキリスト教・天理教などの信者まで逮捕されたのである。

 最近でも、「梅雨空を 九条守れの デモが行く」という俳句を公民館が排除した事例に続いて、政府に批判的な催事には公共の会場を貸さないというような事態が多発している。先月話したように、KY(空気を読む)、上の考え方を忖度して行動する=官僚主義が、事態をどんどん拡大していくのである。

 1938年の国家総動員法によって、特別高等警察(特高)と、憲兵隊が人々の発言・行動に徹底してニラミを利かせた。このような情勢になると、「見ざる・言わざる・聞かざる」でしか、わが身を守る手立てはない。末川博は「人間性を否定されて、牛馬に等しく奴隷扱い」されているのと同じだったと述懐した。

自由を認識できるか

 ここに紹介したのは末川先生の小論「自由」(1965)で、憲法問題研究会「憲法読本(上)」に掲載されている。当時先生は73歳。「自由というものがどんなに大切であるか、自由が奪われた場合の惨めな状態を考えてみることによってよく理解されるのではあるまいか。水や空気のありがたさは、空気がなくて呼吸困難になったり、水飢饉で飯も炊けなくなったりしたとき、いちばんよくわかるのと同じように」。しかし、「今日30歳未満の諸君には全く別の世界のようで実感が出てこないかもしれない」と心配されていた。

 このときの30歳は、敗戦時10歳だ。空襲や食のひもじさを体験した人はいても、自由がないという記憶は、あっても希薄であろう。末川先生が暗黒時代の渦中で高校生になったとき、はじめは自由の意味が切実でなかったと書いておられる。空気や水がなくなったら当然騒動するだろうが、実は、時すでに遅いのである。まして現代人は、政治的アパシーが極めて強い。時代や社会を考える「問題意識」がなければ、とてもじゃないがデモクラシーのありがたさがわかるまい。

学問の自由と自治

滝川事件(京大事件)

 末川博は、1917年京都帝国大学を卒業。22年から2年間ハーバード大学・プリンストン大学で研究を積み重ね、25年京都帝大法学部教授として教鞭を執った。30年には岩波「六法全書」を著し、順調に学者生活を送っていたのである。そこへ発生したのが滝川事件(京大事件)である。

 1933年5月26日、京都帝大法学部教授・滝川幸辰(1891~1962)に対して文部大臣・鳩山一郎(1883~1959)が、休職処分を強行した。院外の右翼や国会議員らが、司法が赤化している元凶が滝川にありとして、司法試験委員であった滝川の追放を主張し、鳩山文相が実行したのである。(戦後、鳩山がGHQの公職追放にされたのは滝川事件が理由だとみられる。鳩山は自由主義者を自称したが、学問の自由に敵対するのでは自由主義者ではない)

 *休職は職務を解かれ、俸給は1/3になり、2年経過すると自動的に免官された。要するに指名解雇である。

 京都帝大総長・小西重直(1875~1948)は鳩山文相の罷免要求を拒否した。「学問的研究の結果として発表した刑法学上の説の一部が、政府方針と一致しないという理由で、教授が退職させられのでは、学問の発達はおぼつかないし、大学は存在理由を失う」と応じた。しかし鳩山文相は聞き入れなかった。

 法学部は教授ら全教官35人が辞表を提出して抗議した。法学部の学生全員が退学届を提出し、他学部の学生も支持した。東京帝大などの学生も立ち上がり、16大学参加による大学自由擁護連盟を結成した。文化人200人が学芸自由同盟を立ち上げ、新聞・雑誌を通じて大々的に文部省批判の活動を展開したのである。

 しかし大学当局や他の学部は法学部教授会を支持せず、小西総長は辞職に追い込まれる。また運動も弾圧されて活動停止を余儀なくされた。大学当局や他の学部は国家権力に阿諛追従すると同時に、個人的利害得失を優先して、大きな筋道を踏み外すという悪しき歴史を残した。

 事件後、総長が替わった。説得に応じて京都帝大に復帰した教官もあるが、末川博、恒藤恭(1888~1967 戦後大阪市立大学学長)ら6人は筋を通して復帰しなかった。この際、立命館大学が、滝川をはじめ18名を迎え入れた。お陰で京都帝大が独占した最高級の学者が関西圏の大学の学問レベルを引き上げることに通じたという効果もあったが——

 滝川事件は、いわゆる危険思想なるものが共産主義やマルクス主義だけではなく、国家権力に対して従順でない、批判的見解を保持する学者に対して向けられた事例である。自由主義的な言論活動が封じられた。

 京都帝大は当時、「大学自治の総本山」として政府に眼を付けられていた。末川博は、「この事件は滝川事件と呼ぶべきではなく、日本の学問の自由と大学自治に加えられた弾圧であるから、京大事件と呼ぶべきだ」と主張した。さらに38年には、東京帝大教授・河井栄次郎(1891~1944)が、自由主義的であるとして休職させられる。権力支配者の意に沿わなければ、すべて弾圧するという権力の専制性があますところなく現れている

 敗戦後、GHQの方針で滝川は京大に復帰する。それまで末川や恒藤は大阪商科大学に講師として就職していた。文部省が嫌がらせを続け、教授として認定しないので40年まで教授ではなく講師として勤めたのである。安い報酬で最高級の学者を招聘した立命館は、46年、末川を総長に迎える。立命館の人気が上がった。末川は、49年、立命館大学に総長公選制を導入した。わが国大学で総長公選制の嚆矢である。理事・教官・評議員、そして学生が総長を選挙する。学問の自由と大学の自治を天下に広めたいとの思いである。

学問の自由を抑圧する理屈

 学問とは古来の日本流では「勉学すること」である。学びの門(学門)とも書いた。なにを、いかにして、なんのために学ぶか、という考え方が注目されるようになったのは、西洋からの学問論が入ってからである。

 西洋流でいえば、学問とは、真理を探究するのである。真理を探究するのであるから、なにが真実なのかを一つひとつ研究して積み重ねなければならない。デカルト(1596~1650)は、考える自己(cogito, ergo sum われ思う、ゆえにわれあり)の存在に到達したが、これは真理の認識に向かって歩むための認識の出発点に過ぎない。ちゃらんぽらんに考えたのでは、下手な考え、休むに似たりであって、否、むしろ有害だと言うべきである。

 真理に向かって歩むためには、「本当にそうか?」「こういう考え方もある」という調子で、徹底的に懐疑し、批判を加えなければならない。「懐疑→批判→詮索→実証」する精神がなければ真理に到達することは不可能である。

 たとえば、文部省が1937年に発表した「国体の本義」という論文がある。「日本の国体を明徴(明らか)にし、国民精神を涵養振作すべき」ために編纂されたものである。なるほど、国家・国民が大いに踏ん張って活動するために日本とはなにかについて明らかにするという問題意識は大事である。

 それはよろしいとして、「肇国」(国をひらきはじめる)の項には、大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。――と書いてある。

 天照大神(アマテラスオオミカミ)が神勅を皇孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に授けて、豊芦原瑞穂の国に降臨したときに、日本がはじまったというのである。さて、この話が本当であるか。古今東西の国々の創世記には多く神話が作られているから、それはそれでよろしい。しかし、神話が絶対真理であるというような話になったら、ことは穏やかではない。

 小学校で歴代天皇のご尊名を暗唱させられる。落語の寿限無のヒントはこれではないかと思うが、暗唱・記憶の練習になるとしてもバカバカしい。バカバカしいと言えば張り倒される。これ、一般人の場合だ。一方、歴史学者を志す人にとっては、いかにロマン溢れる話であろうとも、神話は神話であるから、本当の日本の歴史を探りたいのが当然である。しかし、それは出来なかった。

 徳富蘇峰(1863~1957)というジャーナリストがいた。はじめは自由民権的平民主義を唱えていたが、日清戦争後(1895)、猛烈な帝国主義・軍国主義論者に転向した。鯉の滝登りみたいに、時代を逆へ向かって猛然と走り始めた。いわく、「わが日本帝国は、肇国以来、世界唯一、絶対無類の国家として、世界人類史上における一大存在である。この大なる事実を無視して、日本を語らんとする学者の大胆不敵は、われらにとりては、ただ呆れる入るほかはない。」

 これは、美濃部達吉(1873~1948)の「天皇機関説」(1935 国体明徴事件)を罵ったときの言葉である。その要旨は、① 天皇機関説には絶対反対であって、② 天皇機関説は国体に反し、日本臣民にとって許されないものであって、③ ゆえに天皇機関説を唱えるような者は法的に処分するべきだ――という。すなわち、神の国を否定するような学問はあってはならないという主張である。

 このような見識を是とすれば、学問の自由というような言葉の存在する場所がない。学問の自由を否定するのは、真理追求の精神を否定することであり、国家的権威に関しては一切の疑問を封ずる立場である。ここには、臣民というものが今日言うところのpeopleとは似ても似つかぬ存在であって、当然ながらデモクラシー思想の全面否定であることが表明されている。

 天皇の神聖論のためには、真理もへったくれもないという、乱暴極まりないジャーナリストである。いまの人々は、このような人物をジャーナリストとは言わないと思うだろうが、徳富蘇峰は、その後の15年戦争の敗北まで、徹底して神国路線を推進する広告塔として大活躍した。戦犯として断罪されなかったのが不思議だと言われたのである。

 そしていま、たとえば桜井某などは、現代の徳富蘇峰の女性版として、憲法を非論理的に解釈し、憲法学者の主張を否定して改憲運動を進めている。「学問の自由を否定=デモクラシーを否定」という立場に足をつけている流れが今日脈々と継続していることに危機感を抱かずにはいられない。

大学の自治

 学問の自由を守るためには、教育をしっかりした基盤に置かなければならない。すでに教育基本法が改悪された。教科書問題は常に話題になるが、政府当局の匙加減一つで左右されている。ここでは大学の自治に視点を当てて考えてみよう。

 学問の自由を現実に展開するためには、大学の自治が確立していなければならない。滝川事件は、その典型的な事例であった。大学の運営・管理に対する政治権力の介入を排除しなければ学問の自由は守られない。しかし、歴史において学者研究者が排斥された事実が多いことは、大学の自治といっても、それが確立していたことはほとんどないと言うしかない。

 滝川事件でも京都帝大法学部以外の学部はすべて文部省の側に立った。自分たちには関係がないからであるし、逆らって不利な立場になりたくないからである。つまり、すでにそのような立場を選択すること自体が、学問の自由=真理の追求の立場ではないことを意味している。学問=メシになっている。

 もちろん昨今は、大学の自治を強権発動して弾圧するというような手段が行使されているわけではない。では、大学の自治は安泰なのか。まったく違う。いまや一般の目に見えない方法が駆使されており、政府当局が大学を支配管理下に閉じ込めようとする動きは絶えることなく継続している。じわじわと真綿で首を絞める方法である。

 10年ほど前に国立大学の法人化が打ち出された。目的は、大学がもっと高いレベルの充実した教育を展開するためと称して、国のおんぶ抱っこに依存するのではなく、自立的経営をせよというにあった。しかし、いかに自立的経営をめざすとしても、他の企業体と同じような経営はできないから、やはり国の補助金が大きな役割を果たしている事実に変わりはない。

 そのような状態で、2014年8月、国立大学の人文社会科学系・教育系を廃止・転換させよという国立大学法人評価委員会の報告書が出された。単純にいって、直接生産活動の役に立たない文科系学問は手を抜いて、工学系へシフトさせよというのである。いわば、真理を探究し人格の形成をめざすような学問はいらない。モノ作りが上手で、競争力のある企業作りに有益な技術・技能をもつ人材を作れというわけだ。人間作りよりも、まさに人材作り=働く機械作りに励めということである。

 これは人間としての教養を否定する理屈である。西洋では19世紀から20世紀にかけて教養主義といわれた時代があった。教養主義とは、孤立せず、社会のために活動する人間たるための叡智を磨こうという考え方である。自分のもつ能力を最善の方向に育てようという個人主義に立脚した考え方であり、いまもその根本的方向は不変である。行動するのはやさしいが、思索を深めることは容易ではないという、生きる哲学を尊重するデモクラシーの考え方である。

 19世紀のイギリスでは、企業即戦力人材を作れという気風に対して猛反発が起こった。「飲食業者、注文取り業者が、彼らの子弟のために学校を作ることを提案している」と、厳しく反駁した。自分自身を闡明して、さらに教育することに勤しまねばならぬ。社会はそこから発展するという正論であった。(「教養と無秩序」M・アーノルド)このような思想は、わが国でも敗戦前後に共感をもって読まれたのである。

 もし、大学が経営上の都合のみに重点を置いて、政府当局の言いなりの教育機関に堕落してしまったら——と考えると、わたしは心底わが国の将来が心配である。実際、たとえば政府の経済政策1つとってみても、学者研究者の堂々たる懐疑心・批判が展開されていない。アベノミクスが経済政策といえるかどうか、学者研究者が見えざる「ひも付き」になっていないであろうか。メディアの自粛と同じことが学界で起こっていないといえるだろうか。

 今回は、たまたま学問の自由と大学の自治を事例としたが、わたしたちは、直接自分と関係がないようなことであっても、もっと社会状況・事情を見る懐疑心、批判する態度を涵養せねばならない。無関係な問題はほとんどない。無関係であれば確かに問題がないかもしれないが、それは、無関心だからなのであって、無知だからなのであって、社会的存在たるべきことへの無自覚なのであって、これがアパシー(無関心)のアパシーたる所以である。

 自由と自治は表裏一体である。自由を手にするためには自治が、自治が成り立つためには自由が必要である。いま、peopleの自由・自治を奪う政治的動きが公然と表面化している。それが自民党的改憲論である。「見ざる・聞かざる・言わざる」の時代ではない。各人それぞれの立ち位置から非デモクラシーの動きに対して、No! の意思表示をしようではないか。

組合研究会2016⑧2016/06/08 発表   21組合研究会第24年次参加者募集中


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人