月刊ライフビジョン | 家元登場

事件ではなく原因を

奧井 禮喜

学ぶ戦争

 朝日新聞の読者投稿欄に「平和のバトン」という連載企画がある。戦争体験や、戦争体験を聞いた後世代の感想が綴られる。典型的な事例を1つ紹介する。ある高校生は、小学校時代、夏休みの宿題で近所のお年寄りにインタビューをした。彼の地元は九州の歴史ある温泉街である。「腕や足のない人、体全部が黒焦げになるほどやけどを負った人、生きているか死んでいるかもわからない多くの人が運ばれてきて、温泉街は大きな病院みたいであった。二度とあんな姿は見たくない」。「戦争が生み出した苦しみを忘れたころに、また同じことを繰り替えすのです」というお年寄りの言葉が強く印象に残った。もし宿題がなかったら、戦争の歴史を聞くことはなかった。聞いてよかった。戦争のことを自ら学ぶ姿勢が薄まってきているのではないか。ほんの80年ほど前を振り返ってみてほしい。――まったくその通りである。学ばなければ、戦争があったことすら知らずに過ごす。

加害の戦争

 だいたいこの調子が多い。また戦争体験者の話は、当然ながら悲惨で辛かったかという内容がほとんどである。悲惨な目に会いたい人いないから、戦争のことなどまったく知らずに育ってきた子どもたち(大人も)が衝撃を受けるのも必然である。しかも、淡々と暮らしている近所のお年寄りや、もちろん親族が異常な体験を乗り越えてきたと思えば、なおさら衝撃が大きいだろう。ところで、戦争は非常に大きな出来事ではあるが、それ自体は過去の政治の営みの結果であって、地震や津波、洪水などの天変地異とはまったく違い、いかに戦争が悲惨であるか思い知ったとしても、それが戦争を防止することにはつながらない。結果としての事件を知ることは大事だが、悲惨だ、戦争したくないと願っても。願いがかなうものではない。事実、あの戦争を体験した多くの人々が、「自分は戦争には賛成でなかった」と、述懐している。みんなが反対なら戦争を始めることはできない。

反対したか?

 そこで歴史をみると、1931年の満州事変の際、反対の声はきわめて小さかった。というより、「満蒙は日本の生命線」などと、煽られ煽り、圧倒的多数がいけいけどんどんの気風であった。1937年の日中戦争拡大から、戦況が破竹の勢いとはいかず、膠着状態が深まるにつれて、国内の生活困窮度、社会的自由も抑えつけられる。なにやら出口のない事態に放り込まれたところで、1941年の太平洋戦争開始である。なんというバカをやるのかという良識は出番がない。12月8日の真珠湾攻撃の戦果が報道されるや、まさに朝野を上げての大歓呼であった。それまでは、戦場は他国であり、生活の不自由にしても、命懸けではない。はっきりいえば、戦争の悲惨さを痛感させられたのは本土空襲が始まってからだ、かくして、戦争体験といえば、当方の被害状況のみ。もし、全面的降参でなく、形のついた敗戦ならば、いまごろどうなっていたか。想像すると気色が悪い。

「なぜ」をつなぐ

 自分が10歳だった。母に「なぜバカな戦争をしたの?」。母は深刻な表情で沈黙した。その直後だったと思う。吉野源三郎さんの『君たちはどう生きるか』(小国民文庫の復刻版)を買ってくれた。それまでは内外の文学小説ばかりだった。うかつにも、最近、それがわたしの質問に対する返事だということに気づいた。もちろん、全体主義の抑圧が厳しい時代だから、どこをめくっても戦争の原因は書かれていないが、これは立派な反戦平和の立論である。子どもレベルでいえば、ものごとに対する「なぜ」を忘れず、世の中をしっかり見据えて、人間個人としての見識を磨けと言いたかったのだろう。母は女が本を読むとろくなものにならないと言われた当時、隠れて本を読んだ。わたしはどこから見ても努力が足りない。「なぜ」を生かす人生をものにしなければダメだ。そして真実を把握する知性を育てねばならない。「なぜ」を後世代につなぐことが平和を妨害する黴菌との闘いだ。


 奥井禮喜 On Line Journalライフビジョン発行人/有限会社ライフビジョン代表/経営労働評論家/週刊RO通信発行人/ライフビジョン学会理事/ユニオンアカデミー事務局