週刊RO通信

ニッポンは別世界

NO.1557

 まだ暗いうちからカラスが鳴く。うるさい。AHO、AHOと聞こえる。

 ウクライナ戦争とパレスチナ戦争は、有効な対処能力をもたず、拱手傍観している国際社会の弱体・劣化を露呈している。そこから戦火が拡大して世界大戦に突入しかねない有様だ。いや、世界大戦が核戦争をもたらすという危機意識をもたらしているだろうか。いずれにせよ、もののはずみで暴発する危険性は極めて高いのではあるまいか。

 それにしても、ニッポンの政治は別世界、異次元にある。有権者の清き一票が生み出したはずの諸氏が馬鹿囃子に浮かれている。今の動きは、政治をまともに戻すための努力を重ねるというより、権力維持を巡る欲望が蠢いている。亡国の敗戦から民主主義を打ち立て再起してから79年、いったい、この間、日本人なる社会はなにを作り上げてきたのだろうか。

 おそらく多くの人々は生業を通して生活の糧を獲得し、自分のもてる能力を発揮し続けてきたはずである。生活の糧を稼ぐだけではなく、自分の個性・能力を発揮して成長し続けたいと語る人は少なくない。社会を作っている個人がこのように考えるならば、社会は活気があるに違いない。にもかかわらず、実態は無力感とアパシー、その先にニヒリズムが見える。

 わたしは、仕事の質をlabor(生活の糧)、work(個性発揮)、さらにactionと区分して社会を眺めてきた。actionは、前二者が自分レベルであるのに対して、個人が主体的・実践的に社会参加をめざす意義である。すべての仕事は社会にとって有用だから存在する。仕事に関わるだけですでに社会参加しているが、さらに個人の意思のあり方に注目する。

 政治という仕事領域は、それ自体actionであり、経済を支える仕事以上に社会的なものである。政治家をめざす諸君が、世のため人のために尽力すると誓う。政治がしっかり回ることが、さらに人々の社会的紐帯を強め、人々が人々の幸福をめざして活動する社会を構築していく。これが、まさに民主主義・福祉国家の支柱であり、推進力である。

 ところが、いま人々の面前で繰り広げられている自民党の動向にはactionの香りがない。精神がゆるみ切って、腐臭紛々である。政治家倫理など存在しないことが明白である。政治倫理審査会を通して、彼らの不誠実な態度そのものが、ことの実態を物語っている。

 さて、田中角栄(1918~1993)という政治家がいた。おおいにおカネを配った。その金額も配る範囲も実に派手であった。出会った人の記憶は抜群、経歴・係累まで記憶していたという。誇り高き高級官僚(?)も、角栄的手練手管にコロリといった。官僚は、角栄の能力の高さと胆力に惚れたともいうが、配りものが半端でなかったことは事実である。

 角栄の政治観、権力掌握の要点は、政治は数であり、数は力であり、力はカネである。田中金脈として首相の座を追われたが、角栄が組織した派閥は最盛期140人、田中軍団と異名をとった。閥とは、利害を共にする者が一致結束箱弁当になる、排他的な集団である。もちろん、派閥の創始者は角栄ではなく、自民党は結成時(1955)から派閥の集まりである。

 権力奪取のために自民党があり、自民党内の主導権を握るために派閥がある。派閥を大きくするのが、国家権力奪取の道筋である。角栄は、これを著しく効率的かつパワフルに展開した。角栄は派閥活動の中興の祖ともいうべきで、それが今日の自民党まで営々と受け継がれてきた。

 たとえば、二階俊博は人心掌握術として、GNP(義理・人情・贈り物)をモットーとした。角栄のレプリカである。いや、二階だけではない。闇将軍といわれた角栄の精神的遺産は、ミニ角栄をぞろぞろ生み出してきた。彼らに共有する気風は、いい仕事を心がけるのではなく、出世にある。いい仕事をしても出世に直結するとは限らない。ならば初手から出世に焦点を絞り込んで活動するほうが効率的である。

 政治という仕事はactionである。しかし、(政治家的)出世をめざすのだから、いい仕事(政治)が後回しになる。結局、政治をおこなうのではなく、政治を商売にする気風が主流になる。かくして、ユニークな別世界のニッポンが出来上がったのである。まだ、カラスが鳴いている。