週刊RO通信

コミュニケーションの未開

NO.1556

 日本人全体が、コミュニケーションについてまともな理解と認識をしていないために、日本社会はしかるべき発達を阻害されている――のではないかという問題提起をしたい。

 朝日新聞3月28日の論壇時評欄で宇野重規教授は、――なぜこんなに議論がしにくいのだろう。(略)現在の社会を覆うのは言説空間をめぐる重苦しさだ。何かものを言えば、鋭く切りつけるような反応が返ってくる。傷つけられたくないなら、何も発信しないほうがいい。黙ったままのほうがいい。ただし、たとえ無言を貫いても、何とも言えない圧迫感から自由になることはできない。それが今の時代の空気である。――と指摘した。

 これはネット空間で著しい傾向だろうが、黙ったままのほうがいいという気風は社会全体の重低音といってもよかろう。つまり、誰もが自由闊達に自分の意見を述べるという文化がない。これが問題だ。

 1944年生まれ田舎育ちのわたしは、宇野氏の指摘が今だけではなく、戦後民主主義以前から続いていると思う。田舎では、民主主義になっても見えざる権力・権威を背負った旧名門・名家、それに従うボス的存在があちらこちらに居座り、年の功が幅をきかせていた。その、何とも言えない圧迫感や沈滞感を嫌って、「おら都会さ行く」という若者的文化があった。

 もちろん、都会であればきっちり明るい民主主義的空間だとも言えない。たとえば、どこの工場にも「生産第一」の看板が掲げられており、これが「安全第一」に変わったのは1960年代である。会社は親も同然、従業員は子も同然というような発言をする人が珍しくはなかった。生産第一は会社第一であり、戦前からの権力・権威主義の象徴であった。

 1960年代後半になると、働く人が自分の生活に基づいた賃金を要求するのは当たり前の権利だという意識が支配的になった。これは、労使対等論が現実に大きく前進したことを意味するのである。賃金要求の組合員自身による議論など、にぎにぎしく、かつ自由闊達で爽快だった。賃金闘争自体が会社第一から生活者第一への意識転換の先駆けでもあった。

 たまたま重なっただけかもしれないが、賃金闘争が高揚した1960年代後半から1970年代いっぱいは、もっとも職場におけるコミュニケーションが活発であった。高度経済成長は、人々がリーダーの号令一下唯々諾々と従ったから達成したのではない。各人が、自分の目的意識をもって企業活動に関わったから、というべきである。

 しかし、1980年代に一億総バブルで弛緩が進み、90年代にバブルが崩壊するや、一気に活力を失い、個人レベルでの活気が回復しないままに今日に至っている。いまの立場を失いたくないという気持ちが他者との同化を求め、目立たない・におわないことこそ大事という気風が支配している。

 そんな状況下で、鋭く切りつける(?)ごとき発言をする大方は、見えざる権力・権威を後ろ盾としているのであって、さらに付言すれば、それらは戦後民主主義が開いた個人の尊厳(個人主義)ではなく、明らかに復古主義的色彩を帯びている。

 宇野氏は、――他者からの批判を受け止め、取り入れて自分が変わること、それが対話の本質であった。他者を信じるからこそ自分を信じられる。そのための言葉を取り戻したい。――と結論する。ロゴス(言葉)の精神はそういうものであるからだ。

 しかし、匿名で、闇雲に切り付けて快哉を叫ぶ連中が、個人の尊厳を認めず、復古主義的色彩を帯びているのは、個人としての自分を確保しえないから権力・権威を担ぐのである。すなわち自立的精神の人ではない。かつて、ナチに心酔した若者は、自分が自立的精神を確保することの重圧から逃げようとしてファシズムに絡めとられた。この構図はつねにある。

 人は、他者と理解しあうために、言葉を生み育ててきた。社会の成長成熟は言葉の成長成熟と重なる。個人が言葉を通して社会を健全に育てる。日本人はコミュニケーションを理解していない。お天気の話を100回繰り返してもコミュニケーション能力は向上しない。民主主義は本来、座して手に入れられたのではない。社会を作っているのは個人「わたし」である。