論 考

しがらみ再考

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

 一時期、しがらみのない政治という言葉が目立った。この場合、「まとわりつく」関係=利害関係を断つ政治という使い方であった。

 しかし、政治家諸氏は、地縁血縁、親類縁者、同窓生、公私お付き合いなど、とにかく、しがらみこそが存在理由みたいであるから、それを断つというのは、至難の業である。

 一方には、「絆を大事にする」という美しい表現もあって、しがらみと同類のようだが、こちらには嫌な意味合いがない。

 ものも言いようだという味気ない表現ではなく、両者の違いには、民主主義の根本が隠されている。

 社会ができたのは、勝手にできたのではなく、はじめは誰かが他の誰かに働きかけたのだろう。社会はとても大きな存在だ、実は個人が集まって作っている。

 社会がよくないというが、実は自分自身が社会である。では、社会をよくするためには、自分から始めねばならない。と、考えれば絆のイメージが沸く。

 しがらみと表現してしまうと、社会ではなく、なんだか損得関係でつながっているようで、社会が必要悪的存在みたいである。

 社会は必要悪ではない。いかに優秀な個人であっても、社会から離れては生きていけない。「人間は社会的動物である」というのは、社会があるから生きていける動物の意味でもある。

 その意味では、個体としては非常に弱いものだともいえる。しかし、ささやかな採取生活でしか生きられなかった人間が、農耕をはじめ、あらゆる分野で生活に必要なものを作り出してきたのは、まさに他の動物にはない偉業である。

 政治家なる職業は、人々が、しがらみで行動するのではなくて、絆で行動するために存在する。

 権力を恣意的に駆使して人々を手足にするような政治家は、政治家とはいえず、正確にいえば悪漢である。

 このように考えると、現代世界においては、政治家が少なく、悪漢が幅を利かせている。幸い、日本にはギャングの大物はいないようだが、コソ泥もどきは少なくないのではないか。

 こうした連中が作り出すのがしがらみ政治、しがらみ民主主義(似非)ということになる。それを排除していく力は、自分が社会を作っているのだということを忘れない人々にある。