週刊RO通信

目的と手段の履き違え

NO.1552

 パスカル(1623~1662)を研究した三木清(1897~1945)は、「人間は運動体」であることに気づいた。わたしは当初、こんなことは哲学して理屈をこねるまでもないと思ったが、いや、一呼吸おいて考えれば単純どころか、非常に奥が深いことに気づく。

 運動体だから、なにか(目的)に向かって活動していないと空虚である。運動体でない主体は手持無沙汰で、退屈である。若者が一種のバカ騒ぎをする。しかし、バカ騒ぎそのものが目的ではないから、バカ騒ぎのさなかに心の中を秋風が吹く。こんなはずではなかった、という気持ちである。周囲から暴走しているとみられるのは、空虚を無視するためになおさら過激なバカ騒ぎをするのであって、つまりはやけくそ状態である。

 若者ばかりではない。長年会社生活を勤め上げた人がretirement shock=定年ショックを体験する場合もある。定年によって行くべき空間がなくなり、おろおろする。わたしが調べた身近な事例をあげよう。

 定年後数日、のんびり気分を味わっていたTさんは、ある日、気づくと会社に向かう電車に乗っていた。会社の前で、やっとUターンした。Bさんは暇なので、ついつい伴侶の動きを目で追う。使わない部屋の電気を消したり、小言めいたことを言ってしまう。伴侶から、「黙って狸の置物していなさい」と叱られた。Hさんの場合は、伴侶から「庭の桜がきれいよ」と声をかけられて、「それがどうした?」と応じてしまった。以来、会話が成立しなくなったという騒動を巻き起こした。昭和世代の話と笑い飛ばせるだろうか。

 ところで、西洋の神は言いつけを守らなかった人間を楽園から追放した。罰として労働を課したのだが、労働よりも退屈のほうがもっと辛いのであって、罰の状態のほうがよろしいというのだから、神さまはコケにされている。

 退屈が辛いのは、なにかしていないと人間していないことに通ずるからだ。猫好きの人は少なくないが、猫の悠々自適、屈託なさを見て、猫はいいなあと羨んでおられるのだろうか。(昭和の時代、サントリーのCFにあったが)

 活動するには目的が必要である。その目的が食べるためであったら、間違いなく猫のほうが人間より高等遊民である。飼っているつもりが、実は猫のもとに侍っていることになる。実際、地域猫でもあくせくしていない。定年後、あくせくしなくてよくなったのに、あくせく気質が抜けない人間を見て、「吾輩たち」はなんとコメントするだろうか。

 さて、そこで――目的とは、本来自分自身が主体的に決定するものである。このあたりから厄介になる。なぜなら、自分がいったいなにをするために生まれてきたのか知っている人は、たぶんきわめて少ない。現実に、おおかたは食べるためにじたばたやっている。そのうち、なんとなく自分にふさわしいものに出会うかもしれないし、出会わなくても、これが天職なんだと、無意識の諦めに到達しつつ、それなりに人生を貫徹するのだろう。

 さてさて、そこで――政治家は、人々のため、天下国家のために働く仕事である。崇高な仕事である。この道を選ぶのは見上げた心がけである。内外の現実を考えると、難問山積、あちらを突けばこちらが立たずという問題ばかりだから、一意専心、皆さまのために命を懸けて頑張ると公約したものの、命がいくつあっても足りない事態である。

 並み人からすれば、一刻も早く政治家を辞めたいだろうと推察するが、どうも3日やると辞められなくなる質の仕事らしい。ただし、その椅子に座り続けるのは容易ではない。だから、自民党の政治家諸君はカネ儲けに走る。あたかもカネの切れ目が縁の切れ目といわんばかりである。

 カネ儲けは、政治に挺身するための手段なのであるが、いつの間にかそれが目的化している。政治倫理審議会などに出なければならないのは大恥、赤っ恥であって、並み人ならば穴があったら入りたいと思う。ところが、彼らにすれば手段ではなく、目的がおカネだから、恬として恥じない。

 納得する人がいない弁解、はぐらかし答弁をして、お仲間から堂々としていた、立派な政治家(?)だと賞賛する手合いが出るに及んでは、もはや、回収不能である。目的と手段を取り違えている結果は、政治がおカネ儲けの手練手管と化している。ろくな政治ができないのは当たり前である。