論 考

戦前と変わらぬ、無責任リーダー

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

 政治倫理審査会には、もともと制度的に限界があるし、もちろん、野党独自の調査活動に大きな期待がかけられない。

 公開か非公開かでひと騒動したのも無理からぬことであった。

 いよいよ本番においても、のらりくらりの弁解を論破して、「恐れ入ったか」とはならない。そうではあるが、それなりの成果を出した(と思う)。

 安倍派の4人全員が、自身の関与を否定した。弁解内容に説得力がなかったことは天下周知の事実である。そして、冒頭に殊勝な言葉を並べて謝罪したものの、自分に責任がないというのだから、いったい、なにを謝罪したのかを聞きたい。おのおの見事に無責任という人間的共通点が目立った。

 裏金の違法性を認識していたとはっきりいわないのは、答弁技術としては切り抜けたことになるが、客観的には嘘をついたことが明白である。

 かくして、あまり期待がかけられない政倫審ではあったが、弁明に登場した方々が、しっかり弁明できず、弁解としても失敗したので、観衆のわたしとしては、方々は全員「黒」だと判定する。もちろん、裏金のおすそ分けに与らなかったからではない。

 あれこれ思案しているうちに、非常によく似た先例を思い出した。ご参考までに紹介しておこう。

 鈴木貫太郎(1867~1948)は、太平洋戦争末期に首相になり、ポツダム宣言を受諾したことは、誰でも知っているだろう。

 彼は、敗戦直後(1945.9.17)のインタビューで、「軍略的に見て、日米戦争は不可能なんだが、戦争というものはおかしなもので、だれも欲していなくても、自然の成り行きで起こる」と語った。

 評論家か小説家が後追いで感懐を述べるのであればともかくも、戦争指導のど真ん中にいた人物が、このような非論理的(ロマンのつもりか)な見方を語るのだから、翌年生まれのわたしだが、後々にこの話を知ってむかっ腹が立った。

 朝鮮総督もやった南次郎大将は、戦争犯罪人に指名されて、「予想もしなかった。敗戦は軍部のせいにあらず、国民が背負うべきだ」と語った。

 強権、軍国主義で人々を引き回しておいて、お詫びするどころか、お前らに責任があると居直るのだから、始末が悪い。

 朝日新聞(1945.12.17)は、「戦時上層指導の地位にありしもの、1人として進んで責任を背負って立たず」と書いた。

 政倫審に登場した諸君によると、裏金というのは、誰も欲してなくても、自然の成り行きで発生する! のである。そして、悪いのは自分たちではなく、自分たちが裏金作りをしなきゃいかん責任は国民にある! のである。

 このように考えると、責任政治家として、自分たちがなしたことについて潔く責任を取る態度がないことが政倫審でわかった。

 安倍派の伝統である。いや、そのもっと前の、日本的リーダー像の悪しき伝統が、将来の国政リーダーと目される諸君のなかに立派に息づいている。

 政倫審に登場した連中は、したがって、国政リーダーにしてはならない資質の持ち主だというしかない。

 しかし、自民党は戦前からの体質を温存することに熱心であるから、今回のような弁解しかできないがゆえに、彼らは自民党の衣鉢を継ぐに適当だという評価が起こっているのかもしれない。いやはやまったく。