論 考

政党ドメインと民主政治への回帰

筆者 新妻健治(にいづま・けんじ)

 「政党ドメイン」とは、定義そのものには含まれない、「積極的に、その存在意義や存在価値を明らかにする。」という点を、政党において示したものである。政党が、この「政党ドメイン」を明らかにして、具体的な運動および活動を展開することにより、国民を政治的主体として形成し、健全な民主政治への回路を拓き、日本の現状における民主主義の危機を克服していくことを、試論として提起したい。

危機に瀕する日本の民主政治

 政党の定義とは、「政党とは、政治目的を共有する政治家の集団であり、政策形成、政治家の育成、市民の政治参加の促進機能を有する組織である。」とされる。民主主義国家において、「市民の政治参加の促進」は、最も重要な機能であり、これを根本においてこそ、他の二つの機能が有効に果たされるのであり、政党の存在基盤は、そこに依拠するべきだと私は考える。

 また、政党のあり方とは、「共有する思想および社会構想、それに連関する政策理念および政策としての公約、これらを法制化しようとする政治家の存在、それを選択し、支持する国民として構造化される。」という。

 この概説からすると、政治的主体としての端緒が、政党および政治家の側にあり、国民はそれを選択するという形になる。(現実的には、そうならざるを得ないのかもしれないが)本質的に政治的主体であるべき国民が、政党および政治家という存在に依存している。これは民主主義において、理念的には問題を孕むものだと、私は考えている。

 議会制民主主義を基軸とした日本の政党政治は、現実問題として、国民の政治的主体形成の不全に胡坐をかき、民主主義を形骸化させている。また、この政治システムそのものが、政治的無関心を生み出す必然性を内包している。

 それは、この体制及びシステムでは、政治的意思決定は選挙で選ばれた政治家の役割であり、国民自身には、そのことに関与しているといったリアリティは極めて薄く、ゆえに政治に対する当事者=主体性が希薄になるからだ。

 敗戦後からこの間、日本におけるこの政治システムの根本に変化はない。そしてまた、経済成長を国家運営の軸とし、政権与党である自民党は、政治から国民を迂遠にするという大勢を築いてきた。それのみに起因するとは言えないが、その結果、国民の圧倒的政治への無関心とともに、与党政治は腐敗・頽廃の極みに至り、日本は民主主義の危機的状況に見舞われている。

 そこで極めて単純な着想だが、この問題の克服には、国民を政治的主体とする政治システムに転換するための変革が求められるのではないだろうか。この論考では、それを政党のあり方に焦点を当てて、論じてみたい。

政党のあり方について

 定義とは、「内包するものを明瞭にして、その外延を確定すること。それによって、積極的に、その存在意義や存在価値を明らかにするものではない。」とされている。

 前述したが、政党の定義や政党のあり方についての理解や基本認識については、政党の総体として、帰属する政治家および、関係する内外に、ある程度共有された認識はあるだろう。しかしながら、定義において「積極的に、その存在意義や存在価値を明らかにするものではない。」とされている点について、政党は明確にしているだろうか。また、政党に帰属する政治家は、その点について考え、行動しているだろうか。これらの点において、公式に発信されているものや、具体的活動として見聞きすることが、私には十分な認識ができない。

 政党および帰属する政治家が、日本の政治状況にどのような問題意識を持ち、それをどのようにしていくべきか考え、行動しているのか。少なくとも国民と政党とのコミュニケーションの大切さが十分に認識されていない。

 それは、政党として、その存在意義や存在価値を積極的に明らかにして活動していないということであり、政党の発展・成長に向けた国民とのコミュニケーションを閉ざしてしまっているのではないかと、私は捉えている。

 かくして政党は、「積極的に、その存在意義や存在価値を明らかにする。」という点について、自らそれを明確にして国民に働きかけ、行動していくことが、政党の理念や政治目的の現実化への早道であると、考えるべきであろう。

「ドメイン」とはなにか?

 経営学の範疇に「企業ドメイン」という用語がある。「企業ドメイン」とは、企業の存在意義や提供価値、生存領域など、「われわれは何をする存在なのか?」を明らかにする。

 それは、経営理念や企業の使命を、もう一段具体化したものであり、具体的な組織の成長発展および持続可能性の確立にむけた機会・契機への感度を高め、それを見失わない確率を高める。

 また、「企業ドメイン」を明確にすることにより、内外のコミュニケーションを活発にし、それを有効な経営資源とする可能性を高める。(注1、2)

 この「企業ドメイン」という概念を、「政党ドメイン」として、政党のあり方に置き換えて、考察をしてみたい。

「政党ドメイン」とその展開

 以下に、不完全ながら、具体的な「政党ドメイン」を提起したい。

 ―政党は、国民相互および国民と政治家の「対話による協同」によって、具体的な社会課題解決の取り組みの契機を、国民とともに創造する「媒介機能」を果たす。その取り組みは、社会課題の当面の解決とともに、その実践を踏まえた、より根本的な問題解決に向けた政策意志ないし政策形成、そこからの政治的意志決定に結び付ける役割・機能を果たす。それにより、政党は、国民の政治への関心および関与を高め、さらに国民の政治的主体形成の契機とし、日本の民主政治の健全化への回路を拓く。この考え方を政党の存在意義および重要な価値とする。―

 このような「政党ドメイン」を定め、政党が活動することで、日本の民主政治の健全化に向けた、いくつかの重要で有効な成果が期待される。また、日本社会の持続可能性へも寄与することになるだろう。

 以下に、その要点を概略示してみる。

 ・国民と政治家、国民相互における「対話による協同」という行為が、国民の「わかる、やれる、やりたい」という、政治への関与動機を高め、政治的主体形成に結び付くとともに、政治家および政治への信頼感を醸成する。

 ・このような取り組みを進めるためには、参加主体として自立・自発性、その主体相互の理解と認識の共有が必要であり、この体験が民主主義のあり方を身に付ける契機となり、民主的人間形成に結びつく可能性を高める。

 ・具体的社会課題の当面の解決という成果はもとより、その実践の場で生まれる知識が、政治家の専門性を媒介に、政策および政治的意思決定に反映することで、より本質的な問題解決の有効性につながる。

 ・資本主義により解体された、人間の「支え合い・助け合い・分かち合い」の共同体を、今日的に紡ぎ直し、「人間と人間の交通」という人間存在の根本を取り戻すとともに、その関係性のなかで「私」という存在の自己認識を深め、「私を創る」という「人格形成」の契機ともなる。

 ・人口減少・超高齢社会における財源の逼迫等、不足する政治的資源を補い、民主的な社会基盤の安定と社会の持続可能性を支えることに寄与する。

 以上、理論的・体系的・網羅的とは言い難いが、この「政党ドメイン」にもとづき、政党が果敢に活動することが、日本の民主政治の危機克服にむけた取り組みとなり、民主主義の発展・深化への可能性を高めていくことになると考えた。しかし、これは国民との相互関係の問題であり、国民自身の人間としての自立、自発性、政治的意思の醸成に向けた努力の必然性こそが大切であることは、言うまでもない。 

労働(組合)運動と政治

 私はこのことを、労働(組合)運動も連動すべきだと考える。労働組合が、このような「政党ドメイン」を有する政党との連携が可能となれば、組織論的な政党支持の押し付けという、労働組合の政治活動の形骸化は払拭されるのではないだろうか。

 以下は、政党との関係を示したものではないが、労働組合が運動資源を割いて社会課題を解決する社会運動の「媒介機能」となることを戦略とした、私自身の連合運動への問題提起の一説である。(注3)

(以下、引用)

 ―新自由主義により、劣勢に立たされている労働運動を、もう一度再生して社会化するための運動戦略を、篠田・新川(注4、5,6)が提起した。それが、「諸運動の運動」「諸連合の連合」である。『成熟した社会には、社会を善くしようとする「小さな物語」を描き、実践する運動体が数多台頭している。この運動体が紡ぐ「小さな物語」が相互につながり、支えあって、大きな世界を創る。』

 ここに労働組合が、資源(組合員の参加関与、組織運営ノウハウ、資金等)を割き、この多様な運動体の「触媒」(活動への参加と支援により、取り組みの活性化に寄与する)となり、また多様な運動体同志の「結節点」(同じ志をもつ運動体の連携・連帯の機会を媒介する)となり、社会改革の大衆運動として大きな世界を創造する。これを、労働組合の運動戦略とする。―(以上)

 これは「労働(組合)運動ドメイン」と言えるものかもしれないが、「政党ドメイン」にもとづく政党の活動に、重ね合わすことが、容易に可能であろう。

まとめ

 まとめると、日本の政治の総体として、「おまかせ民主主義」から「引き受ける民主主義」(注7)へと、政治システムを転換するということではないだろうか。その転換機能を、政党が「政党ドメイン」という概念を形成のもとに、活動・運動を展開することにより、果たすというものだ。

 無論、現実化するには、多面的かつ多様な問題・課題の存在が残されているだろうが、その実践例が無いわけでもなく、明らかな空論でもない。

 「ラディカルな潤沢さ」(注8)という言葉がある。資本主義に苛まれて、経済的豊かさ至上で生きるより、このような人びと相互の協同の営みには、より本源的で根底的な人間としての豊かさ(幸せ)、その潤沢さを感じるものが、そこにはあるのではないだろうか。                      

(参考文献)

1.『地域を育てる普通の会社―ドメイン経営/地方都市からのメッセージ』小原昌美、塩谷美知共著、新評論、2007年

2.ドメイン/用語解説・野村総合研究所(NRI)

3.『連合運動の座標と運動論の検討』新妻健治、連合懸賞論文「私の提言」、2021年

4.篠田 徹、「国際経済労働研究所創立50周年記念式典シンポジウム―世界の労働運動―今後の”運動“を展望する」2013年、国際経済労働研究所・機関紙『Int’lecowk』、Vol.68.通巻1033号

5.新川敏光、「世界の労働運動―労働運動の歴史的意義と展望―格差社会からの脱出―国際経済労働研究所創立50周年式典シンポジウム」、2013年、国際経済労働研究所・機関紙「Int’lecowk」、Vol.67通巻1023号

6.篠田 徹、『世界の労働運動―小さな物語が繋がり支えあう大きな世界の労働運動(2)」、2013年、国際経済労働研究所・機関紙「Int’lecowk」Vol.68、通巻1027号

7.『わたしたちはどこから来て、どこへ行くのか』宮台真司、幻冬舎文庫、2017年

*資本主義経済が共同体を解体し、共同体を担う福祉機能を国家が担ってきたが、グローバル化による新自由主義は、この国家機能を腐食させる。経済はどうにか回るが、社会は回らない(公助・共助の機能不全)ことが、人びとの鬱屈となり、ポピュリズムへの駆動要因となる。この問題の打開は、政治の目的を内から湧き上がる力で、政治を引き受けようとする者が増えるようにすることにして共同体を再生し、国家を相対化することだと、宮台は提起する。

8.『人新世の「資本論」』斎藤幸平、集英社新書、2021年

*「ラディカルな潤沢さ」は、社会システムを資本主義から「脱成長のコミュニズム」に転換することにより得られるものと定義されている。本論では、人間としての豊かさの再定義として解釈し、引用した。