論 考

被災復旧に性根が入っているか

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき

 市立輪島病院では看護師が132人いるが、28人が離職(したい含む)したという。奥能登の2市2町でも、中核の4病院が同様の悩みに突き当たっている。病院だけではない、消防士や、役所職員もおしなべて自分や家族のことは放置して復旧活動に関わっておられる。

 被災地の方々は、すべて被災者である。これは当たり前だ。ところが、たとえば病院となれば、治療に当たる人という見方が支配してしまって、被災者だということが忘れられる。

 もともと人員配置が潤沢なわけではない。お互いさまだと、じっと我慢してがんばっているのだが、それには限界がある。辞めていかねばならない方々の辛い気持ちを思う。

 だから管理者がいるのだが、管理者はチーム内の人員にしか力が及ばない。ここで、さらに上級の管理者、市町村から県へ、県から国への管理能力が問われる。

 さきの所信表明演説で、岸田氏は、善戦健闘している局面・人を評価して、個人の悪戦苦闘が放置されていると大批判を食らった。

 首相が被災地に入るのは止めねばならない。そのためのお膳立てに手間と時間を取られる。この程度のことがわからないとは思いたくないが―被災地へ行って、仕事していますという証明作りに励むのではなく、たとえば、前述のような絶対的人手不足対策をサポートしているのだろうか。

 政治家は常在戦場という言葉が好きだが、日本は常在災害国である。にもかかわらず、避難所といえばお粗末なもので、日常生活とは程遠い。これも、一定水準に整備する努力が必要だ。

 災害が常に新しいのではなく、場当たり的対処しかしないから、何度でも一からやり直さねばならない。

 国会での裏金問題を見ていると、政治家が被災地のために努力しているとはとても思えない。とりわけ、裏金議員諸君は、自分たちが被災者の足を引っ張っていることがわからないのだろうか。どぶ板議員には見どころがあるが、裏金議員はどす黒いだけで、消えてもらうしかない。