論 考

なぜ独裁者は臆病か

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

 権力者という言葉が使われる場合、その人物が必要以上に権力にすがっている。権力者自身は他の人々となんら変わらず、もともとは非力な個人である。

 権力そのものは強大であっても、それ自体が悪さをするわけではない。

 非力な人間が権力の魔力に引きずられて、不当な権力行使に走る場合、独裁者といわれる。

 権力の正当な行使とは、人々や社会のために駆使されることである。ところが、権力者といわれ、独裁者といわれる連中は、自分のために権力を駆使する。

 権力を無理に駆使すれば、協力者から分け前を要求されるのが常である。要求される分け前が個別には微々たるものでも、積もれば山となる。

 協力者は、いつ、どのような場合に敵対者に変わるかわからない。

 つまり、独裁者は、原則的に孤立している。プーチンが、異様に長い机の端に座って相手と対峙した。本人は、お前らとは違うのだ。と、自分の存在を誇示したいのであるが、他人を信用できず、常に自分の偉大さを見せつけるよう演出しなければならないのは、まさしくポンチ絵である。

 自分の権力を手放さないためには、常に敵対する人を消さねばならない。

 自分以外は目下の敵、あるいは将来の敵になる可能性が高いから、精神が休まらない。いかに演技をこなしても、独裁者は孤立無援の存在であることを認知せざるを得ない。

 独裁者の頼みの綱は、「権力」そのものである。権力にすがりつくほど、個人としての独裁者は脆弱になる。普通の人は後ろ盾(権力)を必要としない。だから、非力の個人は、強い人である。

 強いのが弱くて、弱いのが強い―というとなんだか禅問答もどきであるが、それは権力がどこから生じてきているか考えればよろしい。

 権力は、実は、非力の個人の総和である。

 歴史を見ると、権力者は非力の個人こそが権力の本尊だということを知っていた。だから、個人を蚊帳の外を放り出して、「王様」の類をしつらえ、王様に従うように懸命の演出を続けてきた。いまもである。

 単純な手品に過ぎない。大がかりでも手品は所詮手品である。すなわち、権力者や独裁者の存在は、その社会が未熟幼稚なのであり、それに付け込んだ連中が社会のまっとうな発展を阻害しているわけだ。