週刊RO通信

なれの果てのヒロイズム

NO.1549

 ヒロイズムとは、英雄を崇拝し、または英雄的行動を好む心情で、英雄主義あるいは英雄待望論として現れる。日本人は、昔から英雄待望論だという指摘があるが、日本人に限らず、人間は大昔からそうなのではないのか。それを根底から覆したのが近代人というものではなかったのだろうか。

 また一方、日本人はニヒリズム(虚無主義)だという主張もある。とくに敗戦後は、既成の価値や秩序を否定する。さらに、無意味な生存に安住する逃避的傾向と、既成の文化・伝統・制度を破壊しようとする反抗的傾向があるともいうのだが、ただいまは前者のほうが支配的みたいである。

 ヒロイズムとニヒリズムは当然ながら異なる概念規定であるが、意識と行動から眺めると、意外にも渾然一体に現れるのではないか。それが、日本の社会・政治的現状ではないだろうか。現実を分解するのは、なかなか面倒だが、とつおいつ考えてみたい。

 岸田答弁なるものが、時間稼ぎ、不誠実なことは、おおかたの人が認識しているだろう。デジャビュ(既視体験)などというまでもなく、かの安倍氏のモリ・カケ・サクラが手近な先例である。それは、岸田的グズグズと異なって、隠したり、嘘をついたり、押し切ったりで、もっと強引であった。

 大きな課題に挑戦するというポーズは岸田・安倍に共通である。キャラクターの違いと演技の違いがあるだけだ。いずれも大根役者であるが、比較すると岸田氏のほうが、より大根である。最近の大根は卸してもビリッとしていなのが多いが、その点も、よく似ている。

 この大根役者の連続という事態に共通する人々の気風が、どうもヒロイズムにつながっているように思う。

 ヒロイズムとは、つまるところ、自分の考えや期待を全面的にお任せできるとする心情である。これは、小泉純一郎氏が変人と揶揄されながら、自民党総裁選挙を制した時に表面化した。わたしは、あちこちの講演で自民党をぷっ壊すなんてことは誇大宣伝、世直しなどにはならないと話し続けたが、走り出した意識にブレーキはかからない。冷たい視線を浴びたのみである。

 結果からみると、自民党をぶっ壊すというロマン=幻想、嘘を許容してしまった。役者は違っても、小泉的芝居を継承したのが安倍氏である。自民党(政治)はぶっ壊れるどころか、安倍時代には小泉時代以上の超繁栄ぶりで、報道は、傲慢、驕りを批判したが、どこ吹く風であった。もちろん、いま、裏金問題で岸田自民党は窮地に立たされているはずだが、目立つのは居直り、居座りであって、反省しているふりはあっても、実質が伴わない。

 そもそもヒロイズムと民主主義は根本が違う。極論すれば、民主主義はヒーローを必要としない。ヒーローの登場を妨げる1人ひとりの自立性・自発性に基づいている。という理屈は簡単に理解できるだろうが、それは理屈である。一方、ヒロイズムは感情である。あえていえば、自分が認識できない無意識下の感情といえるだろう。

 ヒロイズムという感情が支配するのは、第一に、厄介な問題を直ちに解決してほしい。逆にいえば、解決できると思っている。この心情に、英雄気取りの連中は便乗する。「厄介な問題であるが、解決するようにすればいい」という、まさに裏付けのない理屈の上に立っている。

 政治とは厄介な問題ゆえ、議会を開催して議論を重ねるのであって、剛腕の誰かが登場すれば片付くような問題ではない。ヒロイズムに足を取られる心情は、根底から問題認識が甘いし、軽佻浮薄だと批判されても仕方がない。積み木ではあるましいし、ガラガラポンが実現するわけがない。

 いや、ガラガラは実現する。1917年ロシア革命がそうである。破壊はガラガラが可能でも、新しい社会をポンと作られるわけがない。革命がどうのこうのと語るのは不要だ。これほど災害大国の日本において、ガラガラポンが可能だと考えるのは、なにも見ず、考えないのと大差はない。

 表面的には、どなたさまも岸田氏をヒーローに担ぎあげるような気持ちはさらさらないだろう。ただし、自分がアンコンシャス・ヒロイズムであると仮定してみれば、まさに、岸田氏をヒーロー扱いしていることがわかる。民主主義はヒロイズムによって根無し草になってしまう。