週刊RO通信

2024賃上げ討論会

NO.1547

 労働者と使用者(経営者)の関係、労使関係(昔は労資関係といった)を、単純かつリアルに表現すれば、賃金と利潤の関係である。

 資本主義制度において、賃金は労働者の、利潤は使用者の、それぞれ死活的価値である。賃金と利潤は相反する関係にある。賃金の増大は利潤の減少であり、利潤の増大は賃金の減少である。賃上げとは利潤の減少を意味するのであって、労使それぞれに格別の意味をもたらす刺激的な言葉である。

 敗戦まで、賃金決定権は全面的に使用者にあり、労働者はひたすら忠勤に励むのが当然であった。使用者の覚えめでたければ賃金を上げてもらえたが、賃金・労働条件などについて自己主張する労働者は、不逞の輩と呼ばれた。

 賃金決定を労使でおこなうようになったこと自体、極め付き歴史的大ごとであった。1950年代後半に、多くの組合が春一斉に賃上げ闘争を展開するようになった。春闘(春の賃上げ)がspring straggleとして、世界的季語!になるには語るも涙、聞くも涙の物語があった。

 さて、安倍内閣時代に、政府が賃上げの音頭をとったとき、財界・使用者はもちろん戸惑った。労働者・組合は、人気取りに不信感を募らせ、余計なことをするなという気風であったし、マスコミは官製春闘だと揶揄した。

 1月24日の経団連主催労使フォーラムでは、財界・労働界ともに、賃上げを唱和するという異例の流れになった。大筋――デフレ脱却のために、物価上昇に負けない賃上げをして、安定的に生活できる社会にしようという。

 賃上げの都度、連合が主張してきたことに経団連が相乗りした。近年経団連は物価に対する賃上げの必要性は了解しても、企業には個別の事情があるとして、連合の具体的賃上げ要求を否定してきた。

 今回は、連合の5%以上要求は、労使での検討に値するとまで踏み込んだ。すでに5%を超え7%以上の賃上げを表明した大企業もある。

 そこで、誰でも疑問に思うのは全労働者の70%を雇用する中小企業の現状である。中小企業経営者は従業員の生活事情を身近に知っている。物価に負けない賃上げをしたい気持ちは財界人どころではない。

 しかし、1990年代後半以降、大企業のように収益コスト至上主義に転換したとしても、稼ぎが知れている。中小企業自身が、原材料・エネルギー料金の値上げにアップアップしてきた事情も半端ではない。

 中小企業には、大企業のように潤沢な内部蓄積がない。収益が不足しているから、賃上げも設備投資も、したくてもできない。これは、従業員もまたよく知っている。

 経団連は、「中小企業も臆することなく賃上げ、商品価格転嫁の交渉をやってくれ」と大変ご親切なのである。さりとて中小企業は、無責任な政治家連のように国債を打ち出の小槌にできるわけもない。連合と経団連がエール交換している様子は、夢か幻かの光景である。

 従来から労働者側は物価に負けない賃上げの必要性を主張してきた。経営側は賃金が物価を押し上げているのだとして真正面から反対してきたのに、今回の大特徴は、賃上げで物価を押し上げるのが狙いだ。やや大げさだが、春闘におけるコペルニクス的転回だと冷やかしたくもなる。

 デフレ脱却のためというのが前提だ。デフレーションは、物価が持続的に下落することで、経済が不活発である。ただし両者の関係は、経済不活発が原因で、デフレは結果である。これを取り違えてはまずい。

 安倍内閣時代から、デフレ(原因)で経済不活発(結果)という説が流布され、10年間におよぶ国債大増発、金融じゃぶじゃぶの状況を作ったが、依然としてデフレは解消しない。円安だけが進行した。円安でも格段に日本企業の輸出競争力が上がらず、むしろ、それでなんとか持っている感じだ。直視すれば、日本企業が力を失い、経済不活発でデフレ脱却できない。

 中小企業労働者の低賃金もあるが、非正規従業員が40%におよぶ低賃金問題、最低賃金が労働者の生活保障の基盤になっていない事実もある。これを無視して、連合・経団連の理論的握手というのはナンセンス極まりない。この春闘、経済活発化の手段がなく、ついに財界はデフレを賃金のせいにした。知恵も力もなくなった産業界を記念する春闘になるのだろう。