論 考

台湾日記

筆者 小川秀人(おがわ・ひでと)

 「台湾は多民族国家なんですよ」。

 5日間、我々一行の通訳を務めてくれた高雄市在住の好青年Mr.Liuが教えてくれたが、これを理解する日本人は少ない。

 年明けから仕事で中華民国(以下、台湾)へ行く機会を得て総選挙の前日まで滞在した。日本の国会に当たる立法院の委員選と総統選が同時に行われ、結果は既報の通り。日本の選挙制度に置き換えると、蔡英文率いる民主進歩党(以下、民進党)は比例区で勝って選挙区で負けた、という見方ができる。それにしても、一連の我が国の報道にどうしても違和感を覚えてしまう。「対中国政策に大きな影響を及ぼす重大な選挙!」。確かにそれも大きな争点ではあるが、この類の視野狭窄的な視点では台湾という国を見誤るのではないか? という仮説に立って、複雑な歴史を持つこの国を、もっと日々の生活を営む民衆の立場から考察してみたいと思う。そうすることで、あの昼夜問わず猥雑とした街の喧騒と豊かな自然が織りなす国、空には戦闘機が轟音を響かせて飛び交うこの国の平和を切に願うこととする。

〇多民族の台湾

 Liuの言葉はこういうことだ。台湾社会は、原住民(16族)、福佬(ホーロー)人、客家(ハッカ)人、外省人に大きく分かれる。福佬人と客家人を合わせて本省人とも呼び外省人と区別する。外省人とは、蒋介石が大陸から逃れてきた1949年以降、本土から渡って来た人たちのことを指し、本省人は、それ以前から主に福建省辺りから移り住んでいた人たちのことを指す。通婚が進みほとんど薄れてきたが、この根底にある民族的歴史を抜きに台湾は語れない。

 蔡英文は、南部(屏東県)の客家と原住民(獅子郷のパイワン族)の末裔で、2016年8月1日「原住民の日」に、かつての日本統治時代の同化・皇民化政策や中華民国政府の方針について謝罪している。Liu自身も自分が原住民の末裔であることを教えてくれた。

〇鄭成功

 17世紀まで遡ると、九州より少し小さいこの島はオランダ人が統治していた。1662年、鄭成功がオランダ人勢力を追い出し、清朝に抵抗し明朝の復興を目指すための本拠地として統治を開始した。これが台湾における漢人の手による最初の政府とされている。鄭成功は今の長崎県平戸市の生まれで母親は日本人、日本名を田川福松という。これを台湾の人は老若男女問わずよく知っており、歴史が正しく継承されているようだ。平戸にも遺構が残ってはいるが、日本では研究者か歴史オタクぐらいしか興味すらないであろう。いずれにしても台湾は、古くから日本人が関わっていたことになる。

〇日本統治時代

 時は流れて1894年、日清戦争が勃発。翌年、日本軍が講和交渉のさなかに澎湖島を占領すると、日本は4月に講和条約として下関条約を締結し、清から台湾および澎湖諸島の割譲を受けた。こうして、これらの地域は中国大陸から政治的に分断され1945年の日本の敗戦にいたるまで、植民地として日本の統治を受けることになった。

 かの同化政策のうち、国語運動は日本語使用を徹底化する運動で、日本語家庭が奨励された。各地に日本語講習所が設置されていたほどである。国語運動の最終目標は家庭においても日本語が使われるというもので。その過程で台湾語(一般にホーロー語を指す)・客家(ハッカ)語・原住民語の使用は抑圧・禁止された。改姓名は強制されなかったが、日本式姓名を持つことが社会的地位の上昇に有利にはたらく場合もあり、改姓名をおこなった台湾人もいた。日本統治終了後、台北県で元の姓名に復帰した件数の統計から、人口の約7%が改姓名をおこなったのではないかという資料がある。80%を超えるとされる朝鮮半島と比べると極めて少なかった。

〇八田與一のこと

 一方で、今でも特に台南地域で慕われる日本人技師がいた。八田與一(はったよいち)。石川県金沢市の出身で、統治時代の台湾で水利事業の役人として台南に「鳥山頭ダム」を建設した人である。驚いたのは、台南市長を表敬訪問した際、市長自ら歓迎挨拶の中で八田のことに触れられた。直前に発生した能登地方地震の犠牲者に哀悼の意を表され、且つ八田が金沢市出身であることを知ってのご挨拶だったと思う。なんとワビサビの分かる人だろう!!頭が良すぎて完全に一本取られてしまった。

 同ダムのほとりには、八田與一の片膝を立てて考え込んでいる様子の銅像があり、当時の八田を慕う現地の従業員によって設置されたとされている。この銅像は金属供出から逃れるためなのか、あるいは日本文化に否定的な国民党に見つかってはならぬと地元の人が隠し続けた結果、蒋介石の死後、元の場所に戻されたという逸話が残っている。しかし、残念なことに2017年、銅像の頭部が政治活動家によって切り落とされる事件が発生している。もちろん日本統治は良としないが、地元に貢献してくれた人に対して、それはそれとして敬意を表す。台湾人の日本人に対する複雑な感情の一端が垣間見える事件である。

 八田自身は数奇な運命をたどり、フィリピンの綿作灌漑調査で出張を命じられ、広島の宇品港から出港し五島列島沖を航行中にアメリカ潜水艦に撃沈され死去している。そして後を追うように、妻の外代樹は鳥山頭ダムの放水口に身を投げてしまう。同じくダムのほとりには地元民の手により八田夫妻の墓が立てられている。墓前に手を合わせることは叶わなかったが、お墓の方向に首を垂れてきた次第である。

〇日本との複雑な意識

 その日の夕食時、5日間寄り添ってアテンドしてくれた現地労組の副理事長Mr.Ivan(日本風に言えば副書記長、44歳のナイスガイ)からボソッと問いかけられた。「小川さん、台湾人の複雑な感情を分かってくれた?」。

 若い人を中心に日本人の海外旅行先人気ナンバー1と聞くし、逆に台湾人の旅行先人気上位も日本だと聞く。それは理屈抜きに歓迎すべきことであるし、未来永劫そうあってほしいと願うところではあるが、ふとこうも思った。日本人が思っているほど台湾人は親日だろうか?

〇民主主義の台湾

 話を総選挙に戻す。台湾は、大陸における共産党軍との内戦に敗れた蒋介石が1949年に上陸して以降、息子の蒋経国時代の1987年まで戒厳令が敷かれていた。それでも蒋経国は開明的な人で、このままではアメリカが相手にしてくれなくなり世界から孤立するし、国内では鬱憤が溜まる一方で国が立ち行かなくなるかもしれないことを察知していたようだ。

 その証拠に、蒋経国は後継者に李登輝を抜擢。李登輝は中華民国初の民選総統となった。そこから陳水扁(民進党)、馬英九(国民党)、蔡英文(民進党)、今回の頼清徳(民進党)へと民選が続いた。蔡英文は、若くして国際法律学者として国民党時代の李登輝に見い出された人である。奥井先生のご論考のとおり、台湾国民は自分たちの手で民主主義を勝ち取ったのである。

 選挙区の結果を見ると、北部はほとんどが国民党、南部はほとんどが民進党の候補者が当選している。この結果は予想通りだそうで、これもLiuが教えてくれた…「南部地域の人たちは国民党が大嫌い!」。理由は大きく二つ。

 一つは国民党が長年執ってきた「重北軽南」政策により、政治的にも経済的にも北部が潤い南部が取り残されてきたこと。もっとも、その「重北軽南」政策も、清朝末期から日本統治時代にかけて台北が政治経済の中心にあったことが遠因ではあるが。もう一つは、前述の民族同士の対立が今も根強く残っていることにある。外省人の多い台北地域、本省人が多く台湾人としてのアイデンティティーが強い台南地域。1979年の言論弾圧事件「美麗島事件」がこの民族対立を物語っている。

 このように、台湾人は普段あまり表には出さないが、民族間の軋轢や日本(人)に対する歴史的感情を常に抱えながら大陸との関係を上手に保っている。実際、蔡英文は「台湾独立」を正式に表明したことは一度もない。長年、外部の力に翻弄されてきた複雑な歴史を持つこの国の末裔たちは、我々日本人の想像を絶するところで極めて「したたか」で「しなやか」である。