くらす発見

中身と風袋

筆者 難波武(なんば たけし)

 今朝の新聞・広告は1キログラムあり重たいが、関心あるもののメモをとってみると2行ほどしかなかった。

 年始早々、重たい記事で読者を悩ませたくないとの配慮だろうか。

 新聞を配達する人の気持ちになれば、芸能ネタとスポーツ分野の特集と、広告を運んでいるわけだから、どんなものだろうか。

 1970年代までは、1月1日の新聞は、まさに、各社の情報力・分析力・論調の優秀さを競い合っているようで、まだ20代であったわたしは、1年が始まるぞという思いと新聞の緊張感に耐えつつ! 字面を追いかけた。

 感覚的な表現であるが、最近の新聞には緊張感ってものが足りない。もちろん、論調は、戦争多発、あたかも暴力全盛の事態を憤り、はたまた嘆き、まさに天を仰いで呆然としているごときである。

 無理もない。かつてペンは剣よりも強かった(はずだった)。しかし、いま、その満々たる自負をもって記事を書いている記者はどのくらいおられるだろうか。

 生意気をいうが、文章の迫力は、筆者の書きたい思いに支えられている。剣の前に膝を屈するのであれば、文章が立つわけはない。

 パレスチナの人々をhumam animalと呼ぶ向きがあるという。人間か動物か識別できない程度の理性であれば、それもまたhuman animalの資格が十分だと思うが、もちろん、それも理解できないだろう。ガリヴァー旅行記に登場するヤフーの話がいまほど切実に迫ってきたたことはない。

 気が付いて非常に腹立たしくなったのは、イスラエルが建国という美名に隠れてパレスチナに大災厄をもたらしたのは、1948年である。その年は、故ルーズヴェルト大統領伴侶エレノア夫人が国際連合を舞台に獅子奮迅の活躍で、国際連合が「世界人権宣言」を採択した、その年である。

 イスラエルは人権と自由を求めて建国したはずだが、やっていることは建国以来、一貫して植民地政策そのものである。自由と独立を求めているパレスチナをテロ呼ばわりするのは絶対間違いである。

 聖書マタイによる福音書には、「偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除けるがよい。そうすればはっきり見えるようになって、兄弟の目から塵を取り除けることができるであろう」とある。

 話をもどす。新聞があまりにひどすぎる世界に対してお手上げ気分になることがわからなくはないが、負けてはいかん。

 年始早々、風袋ばかり重くて中身が軽い新聞を発行してはならない。これは、激励である。