論 考

衝突を避ける?

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

 米中首脳会談は本来トップニュースであるが、さしたる中身がないから新聞記事に精彩を欠く。

 バイデン・習両首脳が会うことに意義がある。会わないより会うほうがよい。各段階の官僚システムの接触が多くても、方向性が定まらないからだ。

 ただ、これだけ世界がきな臭くなっている状態に、楔を打ち込めない。両者が会わない時間が多すぎたからでもある。

 喫緊の取り組みとして、ガザ問題について解決方向へ前進させられればと期待したのだが、表面にはなにも前進がない。

 米国がハマスをテロと固定していると動きが取れない。イスラエルの侵攻を止めさせよというと、テロに加担すると決めつけるようではなおさらだ。

 発生した問題をどの程度のスパンで考えるかによって問題解決の自由度が大きく変わる。そもそもハマスがテロ自体を目的としているわけではない。パレスチナがイスラエル建国以来一貫して抑圧されてきたことが動機である。ハマスはテロだ、けしからんという規定を前提すると、その動機・原因を一切無視することになる。それでは問題解決できない。

 世界を民主主義国と独裁国にわけて、民主主義国の結束を推進するのが米国流だが、紛争の真実を解明する努力を忘れるようではとても民主的と言えない。

 米中首脳会談がガザ問題で前進できないのは、大国の責任を本気で考えていないように見られるから、両国が大国意識を持っていても、世界の世論を動かす力がない。所詮、目くそ鼻くそじゃないかとみられる。

 イスラエルはハマス壊滅が目的だという。しかし、ハマスと市民の区別がつかないのは当然だから、本心はパレスチナ壊滅にあるとみるしかない。

 人命に軽重はない。しかし、現実は違う。こうした思想が、どこまでも世界を一触即発の危機に落とし込む。

 米中ともにドンガラばかり大きくて思想が半端である。

 本日の社説は、「分断より協調の拡大を」(朝日)、「『衝突回避』をどう実践するか」(読売)、「危機管理こそ大国の責任」(毎日)と、いずれも現実を許容するだけで、大国の責任を本気で論じていない。

 現実の前に、無力感に捉われている。無力感に捉われて現状許容するのであれば、ジャーナリズムの価値は薄い。衝突を避けるのが目的ではない。衝突するような暴走をしているドライバーを制止せねばならない。

 現実と衝突する論調こそが求められる。