筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
イスラエルでは「パレスチナ人は人間ではないから、殺しても構わない」と語られているそうだ。もちろん、殺し合いを否定している人々もおられるから、これがイスラエル人のすべてだと言いたくはない。
人間が人間を否定することは、実は、その否定する人間が人間ではないのである。人間が人間を否定する――これが思想の荒廃の行き着く先だ。
戦争だからそうなるのだろうか。いや、違う。
人間を否定する人間は差別する人である。戦争ではなくても、したり顔で差別を口にする人は少なくない。水田某がその悪しき事例だ。
彼女に限らず、人間が無意識であっても抱え込んでいる差別意識が、戦争を生む思想的原因であり、差別は戦争によって跳梁跋扈する。
人間以外に、種が種を否定する動物はいない。差別問題が喧しく指弾されるのは、思想の荒廃の行き着く先と、その原因が差別だからである。
差別は、知識の産物でもある。知識は遺憾ながら、正負いずれにも向かう。知識を手にするのが人間の優越性ではなく、知識の使い方を弁えている人間こそが人間にふさわしい。
カント(1724~1804)が、「人間はすでに啓蒙されたか?」と自問して、「いまは啓蒙の時代であろう」と答えたのは、人間は、人間になるために、いつまでたっても啓蒙途上にあることを忘れてはならないという含意がありそうだ。