論 考

国家と人道主義?

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

 パレスチナ問題については、人道主義に基づいた対応が叫ばれているが、実に遅々として進まない。やる気があるのかないのかも判断できない。

 考えてみれば、国家なるものに人道主義を要求することが甘いかもしれない。なぜなら、おおかたの国家は暴力装置によって機能する仕掛けである。

 社会では暴力装置の使用は犯罪である。しかし、国家は暴力装置があるゆえに国家である。

 暴力装置が使用されれば、破壊と殺戮が起こる。社会において、それは犯罪である。国家の暴力装置は犯罪が許される。しかも、自衛権といえばなんでもありだ。客観的に異議のある自衛権がまかり通っている。

 だから、テロを批判するが、やることは国家の暴力装置もテロリズムも同じである。犯罪が正当化されるのだから、すなわち、人道主義もなにもあったものではない。理屈をいえばこういうことになる。

 国家なるものは、道徳的にみると危険極まりない存在である。憲法が、権力を縛るという原則の必然性を改めてかみしめたい。

 戦争を防ぐのは、結局、国民の見識である。戦争が始まれば、容易には収まらない。戦争を始めさせない見識のある国民こそが求められる。