論 考

命の軽さに麻痺していないか

筆者 音無祐作(おとなし・ゆうさく)

 映画「グランツーリスモ」は、今も現役として活躍中のカーレーサー、ヤン・マーデンボローの実話をもとにした物語です。

 ヤンは、恵まれた環境で、幼い頃からカート等によって成り上がってきた他のレーサーたちと異なり、オンラインゲームによる選手権で勝ち上がることで、レーサーへの道が開かれたという稀有な存在でした。いろいろと脚色された部分はあるものの、物語の大半は事実に基づいているそうです。

 なかでも、ショッキングだったのが、世界屈指の難コース「ニュルブルクリンク」(ドイツ)での2015年事故の逸話でした。強い向かい風により、車体が浮き上がり、制御不能に陥り、マーデンボローの乗ったレーシングカーは、宙を舞います。事故で陥った昏睡状態から目覚めた彼に、ショッキングな事実が伝えられました。自分の事故により、観客の一人が命を失ってしまった—

 彼は、一人の人間の命を奪ったことに思い悩み、レースへの復帰はもちろん、日常生活もままならない状態に陥ります。やがて、周囲の支援のおかげで、立ち直り、レースへも復帰を果たしますが、彼の心には、生涯忘れられない傷となっているでしょう。事故であり、名前も顔も知らない相手とはいえ、他人の生命を奪ってしまったことに後悔の念を抱く――人間として、知性ある生き物として、正常な感情ではないでしょうか。

 ところが、そんな感情を狂わせる行為が戦争です。

 通常の感覚であれば、罪悪感を禁じ得ない、しかも意志をもって人を殺すという行為が正当化され、目的化されてしまいます。そんな環境の中で、若者たちの精神はどうなってしまうのでしょうか。

 昨年ウクライナ侵略を開始したロシアでは、いまや長期化する戦争をにらみ、かつての日本のように、学校教育の中で、子どもたちに、銃の扱い方や闘い方を教えていると報道されています。ベトナム戦争や9.11に対する中東での報復作戦等の後、アメリカでは多くの帰還兵の精神が病んでしまったという話は他人事ではありません。

 おまけに近年では、ミサイルやドローン攻撃などにより、はるか離れた場所から、画面を見ながら、殺戮を行うという戦い方も登場しています。そういった殺戮の担当者は、自分の操作により、時として幼い子どもたちが犠牲になる事実をどう感じているのでしょうか。

 当事国ばかりではありません。隣の国での兵器開発・販売が好調になってきたからと言って、「経済」最優先で、輸出を考えた兵器開発を考えるような動きがありますが、自分たちの開発した「製品」が人の命を奪うかもしれないと想像すれば、とてもやりきれません。

 遠く離れた国々で暮らす私たちも、日々のニュースで、戦闘により何千人が死亡した、などという数字をくりかえし聞き流していますが、慣れてしまって、一人一人の命の重さを忘れてはいけないと思います。

 政治の仕事で自国の安全保障を論ずることも大事でしょうが、未来ある若者たちに命の重さに対する正常の感情や理性を持ち続けてもらうことが欠落してはいけないと思います。