週刊RO通信

精神の水-読書論

NO.1534

 今年の読書月間は10月27日から11月23日である。まあ、これは業界のセールスキャンペーンみたいなものだが、1947年に制定したときは、――読書の力によって平和な文化国家を作ろう――という心意気だった。

 日本初の文庫本は、1927年7月創刊の岩波文庫で、いわゆる教養主義・啓蒙主義の香りが高い。1867年から発行されているドイツの小型版叢書レクラム文庫を範とし、誰でも安価で手軽に読める学術書という企画だ。

 巻末には、「読書子に寄す」として発刊の精神が掲載されている。冒頭から――真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実な要求である。岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。――

 この文章は、哲学者三木清(1897~1945)30歳の筆によるもので、高邁すぎると見る向きもあろうが、時代の精神的息吹を反映した文章である。

 わたしはもっぱら古書店で岩波文庫漁りをしてきた。初期のラインナップは、まさしく教養主義・啓蒙主義の古典が並んでいる。それらのいくつかを読むと、こんにちの読書事情のみならず、日本人に欠乏しているものの見方・考え方がたくさんあるように感ずる。かつての熱心な読書の成果は、いったいどこへ消えてしまったのか。不思議でならない。

 今年の読書月間の宣伝文句は、「本との新しい出会い、はじまる。Book Meet Next」なのだが、いかにも抽象的薄っぺらで面白くない。単に本を読もうというだけではなく、三木清の問題意識を見習ってほしい。本の売れ行きがよろしくなく、書店がどんどん減っていくという危機感だけでは、読書月間が販売キャンペーンでしかない。

 いろんな読書論があるが、堅苦しい表現ではあるが、「自分自身を闡明して教育することに勤しめ」(M・アーノルド)という言葉に集約される日常的学びの態度が大事だと思う。

 これはアーノルド(1822~1888)の『教養と無秩序』という本で、1947年の岩波文庫である。紙質もわるく、だいぶ黄ばんでいる。職場の先輩数人から「古典をお読み」と言われた貴重な経験があるが、この本は、当時の若者にかなり読まれたようだ。アーノルドは、教養の目的は、充実した生を享受するためにあると指摘した。教養主義の代表作の1つであろう。

 朝永三十郎(1871~1951)『近世における「我」の自覚史』は1952年初版の角川文庫である。わたしが入手したのは55年5版である。初出は1915年で、52年に角川文庫に収録された。学生中心にたくさんの読者がいたようだ。哲学者三十郎さんの子息がノーベル賞の朝永振一郎さんである。

 同書は、欧州15~17世紀を文化の一大革新期とし、それはルネサンスという古典的文化の発見・再生、大陸・宇宙の発見の2つであるが、むしろ本当の発見、それらに通底するのは「我」の発見にあると喝破した。いわゆる大正デモクラシーの理論的支柱ともいえる。いまの日本人が読み直すべき貴重な本だと確信する。「我」こそ、もっとも欠落しているからだ。

 話を戻す。読書すれば知識は増える。しかし、なんのために読むのか。読書感想文を書くためではない。抽象的だが、アーノルドの教養説は理解しておく価値があろう。ショーペンハウアー(1788~1860)は読書論で、ただ読むだけなら他人の古着にすぎないと忠告した。これも多数読者がいた。

 懐疑しつつ読めというわけだ。懐疑は否定的に理解されている向きがあるが、そうではない。手にする本をAとし、自分の考えがBとすれば、読書を通じて自分の考えをCに進めよという。懐疑は、本と自分の対話であり、さらなる高みを求めようというのである。

 「神は細部に宿る」(A・ヴァールブルク)という言葉もある。読書から発見する喜びは大きい。読書して、思索を積み重ねる結果、「人生にとって最大のことは彼が彼自身を知ることである」(モンテーニュ)という地平へ到達することが肝要なのだろう。読書は空腹を満たさないが、最大の効能は思索を通じて、乾いた精神に命の水を注ぐ行為である。