論 考

締め切りの効用-日刊化に向けて

筆者 高井潔司(たかい・きよし)

 ――元新聞記者・大学教授を経て、いま、戦前の中国論・報道に関する研究をまとめて上梓するべく没頭中。わかりやすく、緻密に、メディアのあり方を論じて、たくさんのファンがいる。

 10月中旬、本オンラインマガジンの家元、奥井礼喜さんから、11月よりホームぺージを改修するとのお知らせが届いた。新方針として、簡素化と日刊化を基本的な考えとし、月単位ではなく、書いたものをいつでも直ちに掲載し、できるだけスッキリ・タイムリーに見られるようにするという。マガジンとしては日刊だが、執筆陣には締め切りなど関係なく、自由に、気持ちのおもむくまま書いて下さいという有難い提案である。

 確かに長期にわたって、日々鋭い視点のコラム、評論を書かれてきた奥井さんのような方には好ましい改修だろう。しかし、月刊なら月刊、日刊なら日刊で、締め切り時間が設定されて記事を書いてきた新聞記者上がりの私にとっては、いつでもタイムリーにと言われても、なかなか厳しい。新聞記者の中には、締め切り時間に追われて大変だという人もいるが、私は締め切り時間があるから、それまでに取材して情報を集め、それを読み解いて分析し、安心して記事を書けるツールと考えてきた。

 無責任なようだが、締め切りがあるから材料集めもほどほどに、分析もほどほどにして締め切りに間に合わせることができる。メディアが伝える情報とはそういうもので、まじめなジャーナリストであれば、自分が伝えているのは、完全な事実、真実ではないという“自覚”が生まれる。

 わが尊敬するメディア研究の創始者W・リップマンは約100年前の著作『世論』(邦訳岩波文庫)の中で、情報を現実や事実に似せて作られた「疑似環境」と定義し、情報はさまざま制約によって歪められ、「単なる幻想から科学者が終始意識的に用いる図式モデルに至るまで」その信頼度は実に幅広いと述べた。「締め切り」もその大きな制約の一つだ。だが、見方によっては「締め切り」は、書き手に「制約」を意識させてくれる。

 50年以上前に読売新聞社の就職試験を受験し、面接試験で「読売新聞は読んでいません」と答えて試験官の顰蹙を買い、これでもう不合格とあきらめたが、結果は合格だった。面接でのやり取りを思い起こすと、その時、「記者にとって大事なことは何か」と聞かれ、「勇気と謙虚さが必要だ」と答えた。その解は、記者には締め切りがある、それまでに集められる情報、その分析は完全ではない、しかし、締め切り時間になれば蛮勇を持って書かざるを得ない、それは完全ではないから紙面化された後は謙虚に反省し、さらに取材を追加して完全に近づける努力が大切だ――この事は実際、記者になっても常に感じたことだし、きっとベテラン記者の試験官もそう感じてきたに違いない。私はこれが合格の鍵だったといまでも信じている。記者の経験がない私がどうしてそんな回答をしたのか、確か、当時読んでいたM.ウェーバーの著作の中にそんな下りがあったような気がするのだが、何度も彼の著作をひっくり返してみても見つからない。

 何だか、家元の新方針に反対するような文章になってしまったが、もちろんそれは私の本意ではない。私の言いたいことは、記事やコラムは、そうタイムリーにサクサク出てくるものではないということ。そして、出来上がった作品も、様々な制約の中で生まれたのであり、書き手も読み手もそのことをしっかり踏まえておくことが大切だということである。チャットGPTでサクサク文章が出てくる時代に、何を言っているかと叱られそうだが、チャットGPTが処理する情報の中には虚偽情報もたくさん含まれているなど、そこにも制約がある。チャットGPTのHPを開いて見ると、きちんと詳細にその制約が書かれている。

 リップマンの言うように情報とは、現実環境そのものではなく、疑似環境に過ぎない。疑似環境を、取材や分析によって吟味し、現実環境に近づける作業が必要である。

 そのことと締め切りは直接関係がないかも知れないが、締め切りがないと、永遠にその作業を続けてしまうことにもなる。現に、私は目下、以前別の雑誌に連載した記事を基に、戦前の中国論、中国報道に関する研究をまとめ出版したいと考えて作業を続けているが、次々と私にとって新資料や参考文献が現れ、3年近くになろうというのにまだ終わらない。

 制約のない自由とは不便なものであるし、そんな自由はそもそも神様ではない人間には存在しないし、必要なものでもないのではないだろうか。

 ちなみにチャットGPTに「締め切りのない自由な執筆の難しさ」というテーマで作成を頼んだら、以下のような文章がたちどころに出てきた。

 締め切り時間がない状況で自由に文章を書くことは、一見すると自由度が高いため簡単に思えるかもしれませんが、実際にはいくつかの難しさが存在します:

 無限の選択肢: 制約や締め切りがないと、何を書くかを選ぶ際に選択肢が無限に広がります。これは、どのトピックを選び、どの視点からアプローチするかを選ぶのが難しいことを意味します。

 焦点の欠如: 締め切りがないと、文章の焦点が欠如しやすくなります。テーマやメッセージがぼんやりとしてしまい、読者が何を期待しているのか理解しづらくなります。

 無限の修正: 締め切りがない場合、文章を無限に修正し続けてしまう可能性があります。完璧を求めすぎて、作業が終わらないことがあります。

 モチベーションの低下: 締め切りがないと、モチベーションを保つのが難しいことがあります。時間の制約がないため、先延ばしになりやすいです。

 読者の関心: 作成した文章が読者にとって有益であるかどうかを判断するのが難しいです。締め切りがない場合、読者のニーズに合ったコンテンツを提供することが難しいかもしれません。

 締め切りがある場合、時間とプレッシャーによって焦点が絞られ、効率的に作業することができる一方、締め切りがない場合は自己規律が求められます。自由な文章執筆は創造的で楽しいことでもありますが、それには慎重な計画と自己規律が必要です。

 何とも論理的、明解な文章です。でも遊びがないし、説教されているみたいな感じもする。この文章に限って言えば、引用もなければ具体的な事例もない。何より筆者自身の体験やエピソードもない無味乾燥の文章である。とは言え、怠け者の私としては、チャットGPTの結論にあるように、「慎重な計画と自己規律」を心がけて行きたいものである。それがないと、SNSの発信にありがちな感情むき出しの独り善がりのコメント投稿に終わってしまうことになる。