週刊RO通信

官僚制国家は活力を失う

NO.1531

 尾身茂氏(元コロナ対策分科会長)が朝日新聞のインタビューに応じた記事(10/1)が興味深かったので、簡単に紹介して、多少の感想を記したい。

 尾身氏はこのほど『1100日間の葛藤』(日経BP)を出版したそうだが、コロナ禍3年余に、専門家が政府に提言した数は100を超えるという。提言への政府の対応を尾身氏は6パターンに分類してみせた。

 いわく、①提言を理解して採用 ②採用したが実行が遅れる ③提言の趣旨を理解していない ④提言を採用しない ⑤専門家と協議せずに独自に判断 ⑥専門家と相談していないのに相談したといって進める。

 安倍政権での「Go To トラベル」の運用見直しを求めた提言は採用遅れ②、第一波での一斉休校要請・アベノマスク配布は⑤、岸田政権での陽性者の自宅療養期間短縮は専門家と相談していないのに、相談したとして進めた⑥――という具合である。

 尾身氏は、データや時間的限界があり、完璧などとは思わない。果たして提言の内容が妥当だったのか、第三者に検証してもらいたいという。新著はそのために書き、書いているなかで6パターンに気づいたそうだ。

 専門家が未知の危機に際して尽力したが、それを検証してもらいたいというのは、門外漢が聞いても、専門家としての真剣・真摯な姿勢だと思う。専門家のためだけではなく、コロナ禍の取り組みを検証しておくことは、今後の学問的研究、実践的対策を立てる上でおおいに意義がある。

 とくに、岸田氏は2年前の自民党総裁選立候補以来、コロナ対策を最初から検証総括すると公約して、首相当選後の所信表明でも同様の発言をした。ところが、昨年の検証作業なるものは、たかだか1か月、内部の作文つくりで終わって、検証による発見などは期待すべくもなかった。この公約違反は、政府・与党の政策に対する計画杜撰、実行放任、検証なしの典型である。

 6パターンを眺めていて気づいた。①から⑥へ見ていくのではなく、⑥から①へ見ると、とりわけすっきりする。

 つまり、専門家は政府当局の隠れ蓑なのか、アクセサリーなのかは知らぬが、基本的に専門家の提言を聞く気がなかったと読み取れる。実行が遅れる②のは、もともとやる気不足なのだからみたいである。

 もちろん、まったく予期せぬコロナ発生で、しかも先進的な各国とは異なって、感染症対策を軽視してきたのだから、現在の当局者が過去のツケを回されたとして、同情するくらいの気持ちはわたしももっている。

 ただし、それは一連のコロナ対策において、当局と専門家のベクトルが傍目にも一致している場合である。一斉休校要請や、アベノマスクなどはあまりにもわかりやすい事例であって、前者は安倍氏の思い付き、後者は語るに落ちるが、取り巻き茶坊主が政権の人気獲得作戦として打ち出したことは、誰でも知っている。しかも後処理はうやむやだ。

 尾身氏がインタビューで、「たいへんだったけど、力いっぱい仕事をしました。批判されても悔いはありません」と語るようなら、尾身氏自身が6パターンに気づくことはなかっただろう。

 さて、気がかりは、政府が専門家・学者・研究者などについて、そもそも本気でものごとを相談して、政策に反映させる心構えがあるのかどうか。聞く耳内閣が看板だけという実体はすでにわかった。国の官僚組織がわが国最大のシンクタンクであることも承知している。

 しかし、政府当局が聞いてやるという態度では大間違いだ。日本学術会議を巡る紛争も同じ構造である。なんのことはない、政府当局に従順なることを求めているだけだ。わずかな運営費で活動を牽制するなど論外である。

 官僚組織は全能ではない。国政運営は、人々の持てる力を可能な限り活用するべきである。政府は国政の舵取りをするが、国民は官僚ではないし、官僚以下ではない。国民は政府・官僚が奉仕すべき対象である。

 これを意識的に忘れていることが、はしなくもコロナ対策分科会との不調和として発生した。政府・官僚の命令指示で人々を動かそうとするのは、政府専制国家であり官僚制国家である。民主主義とは縁もゆかりもない。これをきっちり証明してみせた尾身氏に、わたしはおおいに共感する。