論 壇

公害対処から政治の根本を懸念する

 9月27日の大阪地裁(遠野ゆき裁判長)によるは不知火海沿岸の被害者に対する水俣病判決は、水俣病被害者救済法(特措法)に基づく救済をうけられなかった128人が原告で、またまた国・県・チッソが断罪された。報道を見てため息が出るし、なんともいえぬ怒りがこみ上げる。

 公害は公益の反対語である。公益のための産業活動が公害を生む。意図的でなければただちに産業活動の改善をおこなうのが当然だが、水俣病は、国・県が企業の後ろ盾になって被害を拡大した典型的事件である。しかも、いよいよ被害者救済の段階になってからも、被害者の立場で救済がおこなわれてきたとは、といもいえない。それがため息と怒りの理由である。

企業城下町の横暴

 公害の歴史はすでに1890年代に始まる。足尾銅山・別子銅山・日立銅山などで亜硫酸ガスや鉱毒水が輩出された。大正時代には、大阪の大気汚染が大問題になって、住民の抗議運動が活発化し、大阪市の大気汚染防止の規制も開始したが、戦争時代に入って住民運動はできなくなった。

 敗戦後は、なにがなんでも国家再建というわけで、生産量が伸びるにつれて公害も急伸した。とめれば、重化学工業の発達が最大の理由である。人口集中や大量輸送の発達も理由に挙げねばならない。

 見落とせないのかが、企業城下町の思想である。1960年代前半、全国自治体公務員は170万人だが、公害対策専従職員はやっと300人ほどであった。、1955年福岡県は八幡区の煤塵が異常に多いことから公害防止条例をつくったが、県経営者協会は反対声明を出し、まったく顧慮するところがなかった。

 県に委嘱された九州大学が大気汚染の観測を開始したところ、たった一夜で、全部の観測器が破壊された。県の担当係長が八幡製鉄に乗り込み、犯人は不明だが、法治国家なんだから、条例に協力してもらいたいと談じた。製鉄所の幹部は、北九州地域は製鉄所の煙でもっているのだから、製鉄所の煙が嫌だというような不心得な市民は出て行ってもらいたい。その土地はいつでも買い上げると抗弁したのである。

 1970年代に公害反対が全国的に拡大したときも、たとえば労働組合が「生活のため」に、市民運動に敵対するという事態も起こった。なるほど、生活のためではあろうが、働く自分たちが体を壊して生活のためというのは、決定的にナンセンスである。

水俣病の発生

 水俣病は1953年ころ、熊本県水俣湾周辺で、魚介類の大量斃死、鳥の異様な乱舞、猫の狂い死になど生物界に変化が現れた。この時点で被害者が発生していたのだろうが、まだわからなかった。

 1956年、新日本窒素(以下チッソ)の付属病院長細川一博士は、奇病の子どもの患者4人を発見した。手足が硬直し、震えが止まらない、目は虚ろ、よだれを流しながら泣きわめく。やがて成人の患者も増える。博士らの調査で、魚介類を大量に食べる漁民や家族に多発していた。

 1957年、熊本県水産課はチッソ工場の排水による魚介類の汚染が原因とみて、食品衛生法によって、漁獲禁止と工場排水の停止に踏み切ろうとした。ところが、政府は、チッソと日本化学工業協会の圧力をうけて、熊本県の措置を許さなかった。

 1958年、熊本大学医学部水俣病問題研究班は、水俣病が有機水銀中毒だと突き止め、翌59年に発表した。厚生省食品衛生調査会がこれを認めたが、厚生大臣は同調査会水俣部会を解散した。

 細川博士は、猫を使った実験で、アセトアルデヒド製造工程に問題ありと突き詰めたが、工場長は結果の公表を禁じ、実験の一時中止を命じた。

 チッソは、東京工業大学清浦教授が1960年に発表したアミン説論文――ものに含まれるたんぱく質が腐敗して生じるアミンの中毒によって、水俣病が発生したとする――を全国の研究者・関係者に配布した。工場の過失を魚を食べた人々の過失に意図的に置き換えようとした。これは、決定的確信犯である。

チッソ抗議運動

 水俣病の被害者・家族や、漁業の自主的規制をおこなっている漁民の生活は悲惨であった。おカネがなく、屋根は朽ち、障子は破れ放題、電灯もつかず、ぼろきれやワラにくるまって寝ている状態が生まれた。ついに、人々はチッソに乱入して抗議した。

 1959年暮れ、チッソは漁協との間に見舞金契約を結んだ。これがまた策謀そのものであった。つまり、将来水俣病の責任がチッソに確定した場合に備えて、「将来水俣病が工場排水に起因することが決定した場合においても、新たな保証金の要求は一切おこなわないものとする」という1項が入っていた。確信犯の上にさらに悪質な策謀をするのだから、お話にならない。

 1962年、熊本大学研究班がアセトアルデヒドの排水から有機水銀が排出されることを確認し、翌63年に公表した。これでチッソの過失責任(過失とはいえないが)が学界で確定し、国際学会でも清浦アミン説は否定された。

 にもかかわらず、政府もチッソも有機水銀説を認めなかった。政府とチッソはまちがいなく同罪である。

 1968年、政府はようやく水俣病をチッソの責任であると認めた。石油化学が電気化学を駆逐し、採算が合わなくなったチッソがアセトアルデヒドの製造を中止した後という、まことに根性の欠陥としか表現しようのないタイミングであった。

 今回の大阪地裁判決の背景には、次のように事実がある。

 当初水俣病は1956年ころから発生し、1961年には終息したとみられていて、患者数は111人とされていた。しかし、1972年発表の熊本大学研究班の調査では、2次検診の必要なものが12,000人とされた。つまり、61年より後にも被害者は着々と増えていた。

 たとえば、当初は発見されなかったが、天草にも多数の被害者がおり。水俣湾だけではなく、不知火海全域に中毒患者がいる。さらには転居して他県で発生した人もいる。

 その理由は、水俣病認定されても賠償されず、本人、家族の結婚や就職に支障が出るから、被害者が名乗り出ないからである。

 その後も被害者救済が円滑に進まず、たくさんの裁判が起こされてきた。

忘れられた人間

 膨大な水俣病の歴史から、わずかのポイントだけ記した。

 細川博士の発見は1956年、ただちに改善に取り組まれたならば、水俣病がこんにちまで67年も続くことはなかった。事実を隠匿したり捻じ曲げたりしたために、被害は拡散し続けた。

 細川博士は、企業病院に属する医師であるが、その以前に科学者であり、医学者であり、人間として活動した。それに比較すると、チッソの幹部らは、会社システムの官僚として、人間を無視した。自分自身が人間たることを放棄したといわねばならない。

 産業は公益である。しかし、公益とは人間に奉仕するからこそである。奉仕するべき人間を無視し、公害が発覚してからも事実の隠匿と捻じ曲げに狂奔した事実から、彼らの人間性を認めることは不可能である。あえて、善意で! いうならシステムの一部と化しており、ロボットか、AI化している。

 国や県が、チッソの犯罪的行為を知りつつ、公益のために! チッソを支え続けたのもまったく同罪である。さらに、被害者に対する償いにおいて、提訴されるような態度を取り続けたことに同情はできない。

 大阪地裁では、その事実が断罪されたりであるが、さて、ことは水俣病問題だけではない。いまの政治が、人間のための政治という本質を弁えているだろうか。どう見ても、政治家は権力奪取と維持を目的として行動している。国家国民のためという言葉は宙を飛ぶが、実は、己自身のために行動しているに過ぎない。

 この態度が、果たしてチッソより上等だといえるだろうか。逆にいえば、政治が人間をしっかり見すえて展開されるなら、公益を公害に変えるような産業活動は発生しない。ここでいう人間とは、人間の尊厳であり、基本的人権である。

 わたしは、政治の根本が、人間の尊厳をきちんと押さえているかどうか、非常に懸念する。チッソの被害者の方々の粘り強い活動には低頭するしかない。その活動から感じるのは、心ならずも斃れて行った方々の怨念である。政治に対する怨念が発生するような政治は、まともな政治ではない。


 奥井禮喜 有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人