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デジタル敗戦の背景の考察 -コロナ対策失敗は序章に過ぎない-

司 高志

 先月号では、新型コロナ対策について、デジタル敗戦の話を書いてみた。これは、戦争にたとえるなら局地戦での敗北のようなものだ。筆者は、この敗戦の背景には根深い日本の没落要因が隠されていると見ている。

 筆者は、我が国のデジタル戦略は、歴史でいうなら明治維新程度かと思っている。つまり、近代化以前という認識だ。なぜそう思うのかについて書いてみたい。

 明治維新、我が国は、外国の制度と産業をまねてきた。だが、本当のところ、まねてきたものの意味(本質)は分からなかったのではなかろうか? 我が国は、開国を強いられてきたが、当面国際社会から未開国と思われないようにすることが急務であり、まずは外形的に先進国の仲間入りすることを目指した。それゆえに、外形的な制度・文物をまねることは可能だったが、その歴史的意味を理解することには至らなかったと推察する。

 科学についても、結果だけを理解して、うまく使いこなせればそれでよいとしたのではないだろうか? 科学が発展してきた歴史をすっ飛ばして、とりあえず使えるようにしたわけである。産業分野に応用できれば、原理の発見の紆余曲折などはどうでもよかったのであろう。

 だから、原理や手法そのものの理解は進んだが、新たなものを生み出す思考は後回しにされたと考えられる。

 現代の理系的な思考が、上記の延長線上にあるとしたら、頭の中は、これまでの原理・手法をひっくり返すというよりも、いかに効率よく学び、後を追いかけるかという思考法になっていく。

 競争競技にたとえれば、先頭を走る選手はもろに風圧を受けることになるが、先頭の選手の陰に隠れて走れば、風圧を直接受けずに、体力を温存することができる。しかしながら、この手法は鎬を削る国際社会では通用しなくなった。

 たとえば、コンピュータを高速化・高性能化するのはうまいが、現在のコンピュータを超越して量子コンピュータのようなものを発想することができない。ウインドウズやチャットGPTも我が国では製品化されなかった。

 そしてもうひとつ。目に見える有形の製品にはお金を払うが、無形のノウハウにお金を払わないのが、技術をまねて製品を作ってきた我が国の弱点として今でも色濃く残っている。つまり、手っ取り早く行った有形の製品づくりには注力してきたが、目に見えないノウハウ・文化のようなものは、興味・関心が向かわなかったような気がする。

 ゆえに、無形の財産の上に書かれた本が、勝手に複製されても特に罰も受けず、デジタル化された商品に関しては、コピーし放題という次第だ。

 これに加えて、わが国独自の商法が拍車をかける。

 国内でのシェアの取り合いには躍起になるが、海外に出て行って統一規格を作ろうとか海外を相手にする発想はほとんどない。駅前にコンビニが2~3店舗も乱立していたり、ビールや車のメーカーが似たような性能、似たようなデザインで多数勝負していたり、どうなっているんだと思ってしまう。

 そうこうしているうちに、ウインドウズやISO(モノづくりの手順の国際標準規格)が登場して、いいようにやられてしまっている。

 海外では、量子コンピュータとかチャットGPTなど既存技術をひっくり返すような発想が次々と現れるのに我が国はそれを追いかけるだけである。

 自動運転や電気自動車なども世界が先に発想して、世界の潮流を作られたのちに、後から我が国が追いかける形になっている。電気自動車も何がどのように優れているのかも考察された様子もなく、世界潮流を作られてしまい、世界の常識になったころに、後から遅れて開発するという始末だ。勘ぐった見方をすれば、我が国の高度なガソリンエンジン技術を葬る海外勢の作戦とも見て取れる。

 以上見てきたように明治維新からの技術模倣手法が無意識に遺伝子のようにインプットされた状態になっており、書き換えが困難な状況になっている。自由な発想の技術が育つにはどうすればよいのか、また、世界を獲りにいくにはどうすればよいのか、本当に考えなければならない。

 昔の教科書には我が国は貿易国と書いてあったような気がするが、製品の出来栄えが良いわりに、価格が安かったので売れていただけのような気がしてならない。