週刊RO通信

労働組合の心棒

NO.1529

 親は子どもに、こんな風に育ってほしいと期待をかける。あるいは、おれがなったようにならないでもらいたいという表現もした。中学卒全盛時代の多くの親は、学歴がないことをおおいに悔やみ、子どもだけはなんとしても大学を出てもらいたいと気合を入れたものである。

 しかし皮肉な話で、高等教育をめざす人が増えるほど、受験競争は激しくなる。わたしが若いころは、幼稚園からお受験体制なんてものはなかったし、もちろん学習塾も行って当然という雰囲気ではなかった。団塊の世代が狭い教室に詰め込まれて勉強してから後の時代は、どんどん受験戦争が昂進した。しかし、受験戦争がもたらすいびつな影響を考える人が多くはない。

 かつて家業を継いでほしいという考えは一般的だった。いまや、社会は総勤め人態勢である。農林水産業は新しく参加する若者が少ない。無理もない、第一次産業での働き方は個人にとってきわめて負担が大きい。親にしてもラクに働けるなら、それを歓迎するのは必然だろう。

 戦前は農民運動が盛んであった。農業者は小たりといえども独立独歩で事業を展開しているから、自立心が高く、社会的政治的意識も強かった。なによりも産業を支えている大集団である。しかし、それも様変わりした。

 それにならえば、総勤め人態勢になったのだから、勤め人全体の力が社会を動かしそうなものであるが、現実は違う。勤め人といっても、1つにまとまっていない。いまの連合運動ではいかにもさびしい。

 経済社会的に大きな格差がある。勤め人の政治力がまとまらない。ためにたとえば大企業とそれ以外。正規社員と非正規社員の差別が大きい。正規・非正規問題は、いかに経営者が差別ではなく区別だと主張しても、実体があきらかに差別以外のなにものでもない。男女差別も相変わらずだ。

 この事情は、戦後労働組合がめざしたものであっただろうか。はっきり、NO! である。1つひとつの組合には、独自の歴史的事情があろうが、ここでは日本の組合全体がどのような期待をうけて出発したのか、そこから組合がどのように育ったのか、眺めてみたい。

 戦後労働組合の出発はポツダム宣言にある。1945年7月26日、敗戦色濃い日本に対して米英中(後にソも)が無条件降伏を求めてきた。無謀な15年戦争、最終的段階の大東亜戦争に突入した日本が、天皇制専制政治であり、民衆への抑圧が酷かったことから、今後は民主的国家として再建されるようにという趣旨が宣言を貫く流れである。忘れたくない歴史だ。

 その柱として働く人が活躍するように、労働組合の結成が推奨された。戦後労働組合は、戦争を再現しないように、専制政治をさせないように、平和主義と民主主義の推進力たることを内外に期待されたのである。もちろん、ポツダム宣言を読まなかった人も、平和主義と民主主義を歓迎した。

 これは近代化以来の日本の行動を顧みて、歴史的教訓に基づき、新たな国民・国家観を打ち立てるという、まことに立派な再建への道筋を示すものである。1人ひとりでいえば、主権在民の意義を拳拳服膺しなければならない。また、勤め人個々の力は小さいから、社会的発言力を高めるために、労働組合が勤め人力の合体と、その活動を推進する必要がある。

 わたしは1963年に組合員になった。組合はまだ財政不如意であったが、組合の力を大きくするために、学習活動におおいに力を入れた。執行部段階だけではなく、組合員1人ひとりに呼びかけた。職場集会が盛んであった。労働学校が開催され、就業時間後に組合会議室で、組合員が勉強する光景は珍しいものではなかった。学校を卒業してからの学ぶ機会として、地味ではあるが組合活動は、きわめて有益有効な活動であった。

 職場集会が開かれなくなったのも、労働学校のような学習機会が姿を消したのも、だいたい1980年代が分岐点である。それは経済的生活が向上したからである。それから40年後、勤め人の生活は差別最高潮である。

 組合役員が奮闘しているのは十分に理解するが、現実に組合らしい力が発揮されていない。組合の心棒は、1人でも多くの組合員が参加する活動にある。組合活動の必要性と成果を、組合員が認識するためには、役員活動だけではなく、組合員参加の運動を起こさねばならない。