週刊RO通信

先人からどこまで来たか?

NO.1526

 西周(1829~1897)は啓蒙家であり、軍事家(文官)であり、哲学者であった。島根県津和野の人である。津和野といえば森鴎外(1862~1922)で、郷土の大作家として小学校以前から作品にふれていたが、西周を知ったのは大人になってからだった。それも名前を知った程度である。さいきん少し調べて気づいたことがあるので、今回は西周について少し書く。

 西周は1862年に幕命でオランダへ留学した。津田真道(1829~1903)、榎本武揚(1836~1908)も同じ幕命留学であった。彼らは、幕末から明治の文明開化を引っ張った知識人である。

 オランダでは、制度・文物を学ぶことを命じられた。1865年に帰国するまで、ライデン大学でシモン・フィセリングに師事した。

 いつもこの時代の先人を考えると、その驚異的な勉強力と、大きな吸収力に驚くばかりである。とにかく尊敬を表現する言葉もないくらいだ。

 西周が翻訳した言葉は、――哲学、理性、科学、技術、心理学、意識、知識、概念、帰納、演繹、命題、分解――などとされる。言葉も自由自在とはいえない条件で、こんなややこしい言葉を翻訳した。

 いまも、わかったかわかってないかわからない状態で、これらの言葉を使っている。西周らは、漢籍の素養で西洋の学問を理解するのだから、並大抵の想像力・理解力ではない。明治の偉大さはこれだと思う。

 哲学は、philosophy=愛智を翻訳した。賢哲の明智を希求する意味で、北宋・周敦頤(1017~1073)の士希賢に基づいて、希哲学と訳したものが哲学で落着したらしい。

 哲学とは、ものごとを根本から統一的に把握・理解しようとする学問という意味である。西周いわく、「(哲学は)東土これを儒といい、西州これを斐鹵蘇(Philosophy)という」。

 この考えは、1874年西周が『百一新論』に著した。「百の教えも一つになりうるのは物理も心理も兼ねて論じる哲学」であるとした。「論理学と文の技術は一体である。これを悟性、理性、論理」というと解釈した。この本はかなり読まれたそうだ。『百一新論』は、当時の塾生で、失明した会津藩士の山本覚馬の聴講記録をもとに刊行された。

 西周の学問的人気はたいしたものであった。更雀寺(京都四条大宮 現在は左京区)にあった私塾の塾生は500人、蘭語、英語、西欧語学の基礎を教授した。福沢諭吉の塾とはけた違いの塾生数だったらしい。

 将軍・徳川慶喜(在1866~1867)の大政奉還は、1867年11月9日に二条城でおこなわれた。慶喜、老中板倉勝静、土佐の後藤象二郎、薩摩の小松帯刀に加えて、西周も同席していた。その直後、倒幕の密勅が発せられた。その日、慶喜は西周に、英国議会、三権分立などについて下問したという。慶喜の開明さと、余裕を物語るエピソードである。

 西周はじめ、外国へ派遣された人々は、学術・商売・法律のすべてにおいて、遅れている日本的事態を改善するために大きな任務を背負っていた。

 いわば、目立つもの(物質文明)に関心が集中する。「西洋の物質文明、東洋の精神文明」というような言葉もあったが、西洋の物質文明がいかなる精神文明から生み出されたか。西周が相当深い関心を持っていたとしても、どうしても即物的な知的活動へ追いやられただろう。

 西周は、Social lifeを社交と解した。一人ひとりの「我」が社会的生活をめざすという視点がない。日本人は、Social welfareの意識が弱いといわれるが、いまも西周の時代からさほど進化していないというべきだろう。

 マイルズの「Self help(自助論)」を訳した『西国立志編』(1870 中村正直訳)が広く読まれたのはよく知られている。ただし、いまだ日本には、自助論はあるが、自我論がない。これも明治から変わっていない。

 政治など多くの場面において、「What」「Why」が非常に弱い、としばしば指摘される。西周が翻訳した哲学の本丸、「人間とはなにか」「いかに生きるべきか」が、当たり前の課題として社会的に浸透していないと思えば、われわれは、まだ先人の手の内をうろついているみたいである。