週刊RO通信

漱石の手紙

NO.1524

 夏目漱石(1867~1916)が、文部省からイギリス留学の命をうけてロンドンへ旅立ったのは、1900年(明33年)9月8日、帰国は1903年1月24日である。留学費用が少なく、漱石は勉強のために生活を極度に切り詰めて、せっせと書物を購入していた。

 日英同盟が締結されたのは、漱石が留学中の1902年1月30日。桂太郎内閣・小村寿太郎外相のもとで、林菫中英公使とソールズベリー内閣のランズダウン外相とが調印した。

 日清戦争(1894~1895)で日本が勝利して以来、清は列強の侵略が加速して領土を分割され、半植民地状態である。ロシアの進出が著しい。日本とイギリスは、対ロシア牽制を主たる目的として軍事同盟を締結した。

 1902年3月15日、夏目漱石は妻鏡子の父中根重一宛に手紙を書いた。中根が2月12日に出した手紙を3月14日落手し、その返事の手紙である。要旨を紹介する。

 ――日英同盟締結後欧州の新聞はこれに対する評論が絶え間なしだったが、ようやく下火になった。イギリス在留日本人が林公使の斡旋の労を感謝するとして物品贈与の計画が起こり、自分も5円ほど寄付した。留学の切り詰め生活なので甚だ困却している。

 同盟条約締結後、日本では非常に騒動しているようだが、貧乏人が金持ちと縁組を結んで嬉しさのあまり鐘太鼓を叩いて村中駆け回るようなものだ。

 国際関係は道義よりも利益を主にしているから、個人の道義的見識で日英間を喩えるのは妥当でないかもしれぬが、このくらいのことに満足するような有様は甚だ心許ない。どうお考えになりますか?――

 それから121年過ぎて、米日韓がキャンプデービッドで首脳会談を開催した。安全保障協力をさらに高みに引き上げる・首脳会談(外相・防衛相・経産相・国家安全保障局長も)を毎年開催する・3か国の共同軍事訓練・対北朝鮮ミサイル警戒データのリアルタイム共有・サプライチェーン早期警戒システムの試行などを約束した。

 首脳会談について8月20日の社説をみると、読売「日米韓首脳級会談 世界に示した揺るぎない結束」、朝日「日米韓の結束 地域安定に資す連携へ」、毎日「日米韓首脳の定期協議 地域安定につなげてこそ」とある。

 ことの経過をみれば、米中対立が日米韓会談を生んだ条件であり、かつて友人であったことのない日韓が顔を並べた。敵の敵は見方論が、日韓に友情! を芽生えさせたが、1910年から45年まで日本の植民地であった韓国(人)が、日本の謝罪不徹底とする見方は不変である。

 おまけに岸田内閣も尹体制も国民の支持率は低い。韓国の歴史的遺恨は容易には消えない。バイデン外交は大成果を演出しているが、根本がぐらぐらだ。なによりも、米中関係の悪化が、日韓両国に過度の負担を強いている。

 米中対立が3か国の結束を生んだとすれば、地域の安定を目指してなにができるのか。米中対立を解消することが本来の地域安定の道筋であるにもかかわらず、中国からすれば、米国はアジア太平洋地域にNATOを持ち込んだということにもなる。

 バイデン氏のお手柄だというのは奇妙な表現だ。中国排除を軸として地域の不安定をさらに損なう危惧が強いのであるから、あえていえば、見事な逆説・皮肉というべきである。

 読売の主張はとにかく一本調子の明快さである。いわく、国際秩序再構築へ、力による一方的な現状変更の試み(中国)に強く反対するものだとする。アメリカの世界観からすればこの通りである。力による現状変更の試みなるものは、力による現状維持の試みと対立する。いずれも力を信奉していることだけが共通している。読売は、どこまでも太平楽である。

 安全保障の高みに上がったのではない。安全保障の危険の高みに上がったと解釈するのが妥当である。トランプ流わかりやすい嘘よりも悪質だ。

 漱石のいう、道義より利益の外交が主流であるかぎり、世界は平和への道筋を辿れない。ほんの数日前が8月15日であった。歴史は繰り返すという言葉の苦さを理解しなければ、人間はどんどん後戻りするばかりである。