週刊RO通信

1945年8月15日

NO.1523

 なんども書いてしまうが、終戦記念日という表現に対する違和感が消えない。いかにも客観的である。それゆえ記念日の本質が隠れてしまう。いったいなんのための記念日なのか、いちばん大事なことがぼやけてしまうのでは、記念日の意義が薄れる。

 主体(日本人)が、記念日を設定した。ただ戦争が終わったのではない。それは全面的降参である。この記念日は、台風一過の青い空では似つかわしくない。苦い思いを噛みしめて、決して、再びそのような大失敗はやらないという決意を固め直すものである。

 鈴木大拙(1870~1966)『東洋的な見方』に見事に指摘されている。

 ――日本の歴史は今度(敗戦)で大決算せられた。そうして吾らはこれから全く白紙になって新たな道を踏み出さねばならぬ(以下略)——それは無条件降参ということである。日本人はこの降参を嫌う。それで今度も、上は詔勅を始め、下は政府及びそれ以下の諸役所の諸文書及び諸施設にも降参という文字をできるだけ避けているようである。終戦という字がその代わりに使われる。しかし、事実の真相を最も的確に言い表すのは、終戦ではなくて降参である。降参しなかったら、日本は殲滅(せんめつ)によりて終戦したであろう。――

 そして、短く日本人的特質を抉る。――日本人は覿面(てきめん)を避ける。合理的ならざる心情である。――つまり、事実の真相を直視しえない。それは、当然ながら、打つ手が正しくない。無責任というしかない。

 1931年の満州事変に始まり、1937年には日中戦争へ入るが、この間宣戦布告はない。ずるずるべったり戦争である。そして1941年12月8日の太平洋戦争へ突入した。

 中国での戦争計画が円滑に進まず、まさに泥沼状態。アメリカの外交圧力も次第に大きくなる。日本は、アメリカの経済力・軍事力の大きさと比較にもならない大格差がある。戦争を引っ張った指導部でそれを知らないものはいなかっただろう。しかし、開戦した。

 このままジリ貧になるより、一発大逆転を狙って踏み出す。理屈はいかにでもつけられるが、はじめから無理・無茶を承知で開戦した。満州事変以来、誤算が積み重なっている、そのまた上に、新たな大誤算を加えようというのだから正気の沙汰ではない。

 無責任な開戦、無責任の戦争の行き着く先が降参であった。1945年8月15日は、満州事変から15年にわたった一連の戦争が、日本政治指導部の一貫した無責任政治の象徴であることを語っている。

 では、人々はどんな考えでいたのだろうか? 山田風太郎(1922~2001)の『戦中派不戦日記』(1945)をめくりつつ考えた。山田は当時23歳の医学生、(歴史)ドラマの中の通行人に過ぎない。さすがに勉強している面もあるが、大所高所から眺めるのではなく、時代状況に振り回されつつ思いのたけを綴ってある。

 ポツダム宣言(1945.7.26)が出され、原爆が広島(同8.6)、長崎(同8.9)に投下され、ソ連参戦(同8.8)があったが、後世代からみると、戦争指導はどん詰まりに来てもなお混乱・混沌の極みであった。

 山田は、政治家などについて一定の批判的視点を確保している。それでも、最後の一兵まで戦うと思いきや、降参したのが信じられない。なぜ敗れたかを見つめるのが大事だが、日本人は「なぜ」を思いつかない。小利口な連中が日本を牛耳っていると厳しく批判をする。

 一方、神州不滅ではなかったのか。戦争を継続することが最大・最高の義務だと思い詰める。正義の神の国など信じてはいないが、それにしても、やはり軍国主義が人々の脳髄に強烈に浸透していて、簡単に払いのけられない。その後の山田の精神的葛藤は大変な重圧だったであろう。

 日本人が敗戦から、戦争総括をせず(できず)、こんにちまで来た事実はなにを示唆するだろうか。戦争に翻弄された人々が、78年前敗戦に遭遇し、もやもやしたものを抱え続けた時代といまは違うはずだが、相変わらず整理できない問題を抱えて佇んでいるのではなかろうか。