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客観報道を巡って

奥井禮喜

 アメリカでは、報道の客観性を巡る議論が盛んらしい。新聞購読部数の劣勢問題が深刻で、さらにアメリカ社会の分断に対する危機感が深い。新聞がなすべきことをなしたのか、できなかったのか、その反省が大きな動機である。

 客観的に報道しているのに、嘘とハッタリ塗れのトランプ大統領が誕生した事実に対する落胆も大きい。彼が元職となってからも影響力が消えず、次の大統領選挙の有力な候補者であって、共和党内には対抗馬が存在しない。

 従来、新聞関係者には、客観的に報道しているという安直感が支配していたのではないか。というのが、従来の客観報道論に対する批判である。

 そもそも完璧な客観性は望めない。カント(1724~1804)が「認識は対象の模写ではなく、主観が感覚の所与を秩序づける」と主張したとおりだ。すなわち、客観事体が主観の産物である。

 客観性の手立てはエビデンス(証拠立て)だが、トランプ並びに支持者には通じない。かれらはまったく自分たちの主観だけで世間を見ている。つまり、主観と客観の違いなど度外視する。自我に気づかない子ども時代と酷似している。良識や、公正などの概念はもちろんノータッチである。

 アメリカの報道の客観性をめぐる議論は、まだ、入り口程度に思える。たまたま報道の内容は、論争が盛り上がっており、論争のピークのような客観的文章だったが、あまり問題の本質が理解されていないようだ。本小論は、報道記事の内容を評価するものではない。現在、報道になにが求められるのか。そのためにいかなる心構えと努力が必要か――自分の見解を述べたい。

嘘とすり替えがのさばる

 報道が直面する事態で最大の問題は、fact(事実)とfake(まがいもの)の区別がつかないことだ。そのfakeはfiction(つくりごと)に基づいて繰り出される。発信者は確信犯である。

 アメリカの場合、大手メディアは投資会社の資本支配下にある。資本家の傾向では、事実追求・真実報道に熱が入らない。事実だろうが嘘だろうが、書いた記事が売れるならOK、きれいごとを掲げても、売れなければ事業の意味がないという気風もある。情報技術の進歩が発信者のプロパガンダに悪用されてもいる。確信犯だから、ちょいと説得しても解決しない。

 また、報道は客観性概念に基づいているという従来の常識が、報道は客観的で公平なんだという人々の思い込みを定着させ、さらに巨大な情報技術が駆使されると、人々がきちんと考えなければ欺かれやすい。

 真実を見抜く力が天与ならば結構であるがそうではない。情報を理解し価値づける力は千差万別の個性である。

 客観性に基づいた報道が、きびしくいえば、客観という見かけの均衡・中立という形式で処理されている懸念もある。つまり、意見Aもあるし、意見Bもあると並置すれば、事実とまがいものが対等に取り扱われるから、情報の受け手は混乱を深めることになる。まがいものが大手を振っている事態が改められなければ具合がわるい。

 また、客観と多数意見の同一視も随所に見られる。単に公正を気取っただけでは、明確に悪意をもって推進されるプロパガンダに力負けする。

 真実がまがいものに対して必ず勝利するわけではない。残念ながら。このように剣呑な状況・環境において、堂々たる正論の報道はいかにあるべきか。

客観性≠真実の追求

 単純化すれば、fake派の特質は反社会的利己主義である。一方の真実を求める姿勢は、社会をつくっているのは自分たち1人ひとりであり、社会の構成員として立つという個人主義的倫理観が背後にある。

 そうすると、反社会的利己主義を主張する人々に対して中立的であるのは、相対的にはそれに加担するのと同じである。情報をまとめるために客観的姿勢を貫くことは当然としても、反社会的利己主義に対して相対的加担しない見識ラインが必要になっている。

 つまり、世間にはあれもある、これもあると並置するのではなく、――踏み外してはならない――見識ラインを堂々と押し出すべきである。これが、近ごろは全然聞かなくなったが、日本的「社会の木鐸」に通じる。

 そもそも、人にはそれぞれの思想、ものの考え方がある。各人の頭のなかにあるかぎり思想はまったく自由である。思想やものの考え方が行動に移されるとき社会的責任が発生するわけだ。

 至極公正・公平に考えるとしても、人それぞれのバイアス(偏り・偏向)が完全に消えないと考えねば自己満足になる。バイアスのある人が、報道すべき記事を選択する。取材対象を選ぶ。インタビュー相手を選べば、その人のバイアスが加わる。という次第だから、バイアスは避けられない。自分のバイアスを隠さず公開して記事を書く。自分が拠って立つ論拠を明快にすればよい。

 注意したいことは、客観性が真実の追求と同一ではない。真実は、表面的な客観性とはまったく異なる。

社会の木鐸論

 これは、社会の人々を警醒、覚醒せしめるよう導く意味である。昔は、新聞記者の使命としておおいに喧伝され、その高邁な考えに憧れて記者を目指す人が多かった。それを古き良き時代と揶揄するには及ばない。良き時代に到達したのではない、良き時代を求めて人々が理想を失わなかった時代である。ひるがえって、いま、社会の木鐸たろうと志す人が昔より増えているかというと、どうも自信が持てない。

 誤解がないように蛇足だが、記者になれば誰でも社会の木鐸たれるわけではない。少なくとも、しかるべき問題の論旨展開については、一般水準より抜きん出ている必要がある。文章家として優れているのではなく、問題の本質を論ずるについて的確な問題提起ができるかどうかが問われる。

 人々がすでに啓蒙されているなら、万一報道が半端であってもその判断に任せればよい。1970年辺りまでは、人々の民主主義と平和主義は確固安定しているかに見えた。その後の事態の推移と比べると大きく異なっていた(と記憶する)。

 しかし、啓蒙されていないとか不勉強が与件だろう。社会的機関・組織は広い意味で社会的啓蒙に貢献する(社会的責任)ように求められている。まして報道機関は、言論をもって情報・解説・評論をおこなうのだから、ひときわ社会的啓蒙の心構えが大切である。客観的報道に心がけていますというだけでは、役割が十分に果たせていない。

 ついでながら日本の平和記事はだいぶ昔から恒例化して歴史遺産・記念碑のテキストみたいである。読者をして、自分がいかに主体的に関わるべきかを考えるための衝撃、強い影響や印象が脆弱である。

反社会的利己主義の時代

 利己主義がぜんぶ反社会的結果を招くというつもりはない。利己主義が結果的に社会にとって有益な貢献をした事例は少なくない。

 ここで反社会的利己主義と称するのは、自分の損得のために反社会的でも厭わない確信犯的思考が目立つように見るからである。

 利己主義は実際、変幻自在である。右でも左でも、縦でも横でも、使えるものはなんでも使う。場当たり主義で、以前の主張と辻褄が合うか合わないかなど問題にしない。いいじゃないの、いまがよければを地で行くのが利己主義で、カメレオン的変身が得意の手練手管である。政治に利己主義が目立つようになったのは、人々のアパシー(政治的無関心)に拍車がかかったのと相関関係がありそうだ。(これは仮説である)

 反社会的利己主義の拡大・蔓延は、実際深刻な現象である。ホッブス(1588~1679)が、自然状態において人間は万人敵対すると主張したが、社会は人々の連帯を不可欠とするから、それが劣化していくのは長期的に見れば社会が崩壊に向かっている。国際社会の酷い事態が物語っている。

 しかも、普遍的思想対独裁思想を設定して、正義か悪かという対置をするが、こちらの正義は相手側の不義、相手側の正義はこちらの不義であるに過ぎない。正義・不義を一方的に決めて事を運ぶ、すなわち言葉の出番を抑圧してしまうから、残るは力対力という、知恵がない物騒な話にしかならない。

 この場合に、報道に期待するのは、たとえば、国際安全環境が悪化したというのであれば、「なぜ」そのようなことになったのか。まず、安全環境の悪化について真剣真摯に思索・討議するよう、大いに喧伝するべきである。

 政治家は、効果をほとんど検証できない防衛力強化へ一直線だ。主観的には防衛力強化だが、客観的には安全環境がますます悪化する。

 これが客観的見方である。防衛力強化路線は、独断と偏見の主観のみである。この程度のことが、わが報道において警鐘乱打された足跡を見ることはできない。まったく、政治の文脈を客観的! 報道するのみである。これでは、社会の木鐸どころか、権力者の拡声器の役割を果たしているだけだ。

 朝日新聞の論調で気づくことがある。社説は相変わらず紋切型優等生答案みたいで、心打つ文章に出会わない。外部識者の取材、インタビューなどが多用されている。大事は、テーマ設定と人選である。そのさい、自分が選択した取材対象であるから、十分目的にかなわなくても記事にする(記者が気づかない場合もあろうが)。取材相手に対する忖度もあるから、意識せざる辻褄合わせが発生する可能性は低くない。

 識者に問うこと自体は真実への接近に直結していない。インタビューは、取材者と取材対象者が共同して真実に接近するための作業であり、テーマ設定だけとらえても、両者がなにを追求するべきかについて相当事前の準備をしなければならない。果たしてできているだろうか?

 さて、共同作業が終わって記事作成段階で、記者は取材対象が真実への接近の水先案内人だったと認識するか、生煮えに終わったと見るか。場合によっては反面教師として扱わねばならない。ここで、自分自身への寛容、取材対象者への忖度が出ると辻褄合わせに終わってしまう。

 回りくどくて恐縮。要するに社会の木鐸たるには、まず記者自身が木鐸に足る見識を育てねばならない。知恵が足りないから識者にお尋ねするというのも1つの考え方だが、ただ拝聴するだけでは客観性の培養に供しない。

 ――民主主義は、わが社会の礎石・基盤である。ならば、個人主義と全体主義の決定的違いくらいはつねにきっちり押さえておく。全体主義的徴候・傾向に対して警鐘乱打するのが民主主義社会における報道の基本的任務である。

 このように考えれば、いわゆる客観的報道という形式に立ち止まるだけでは役には立たない。わたしの不満は、朝日新聞にしても、記者が個人主義と全体主義の決定的違いを拳拳服膺しているのかどうか。どうも確信が持てない。むしろ、客観的報道論に下駄を預けてポピュリズムを地で行くように見える。

 最後にカントの言葉を味わいたい。

  ――啓蒙とは、自分が自分の未成年状態から抜け出ることである。

 ――我々が生活している現代は、すでに啓蒙された時代であろうか。その答えは、否、しかし、おそらくは啓蒙の時代であろう。

 いまは、カントから200年以上後の時代である。しかし、個体が生まれて死に、また生まれ——という人間の生からすると、個体の生においては、生まれてから死ぬまでが「啓蒙時代」である。

 先達カントは、ホラティウス(前65~前8)の言葉を使った。

 ――あえて賢かれ! 自分自身の悟性を使用する勇気を持て!―― 


奥井禮喜:有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人