週刊RO通信

軽い世相の土壌

 1980年ごろまで、スポーツ紙の見出しの付け方に感心した。なにしろ1面見出しの誘惑が成功するかどうか、それで販売量が決まる。

 そこそこのイベントがあれば記事には事欠かない。問題は人々の関心を引くイベントがなかった場合、どうするのか。某記者は、そこが腕の見せ場だと語った。なにもない日の翌日、見出しこそ販売量を決める。一方、大イベントがあれば記事は各紙集中する。こんどは違いをいかに際立たせるか。

 わたしは、当時5万人組合員を独自の市場として有する素人編集者である。市場は規模が小さいが独立している。しかし、みなさんはわが機関の季刊誌だけ読むわけではない。市場として考えれば、ジャンルが異なっても、世間の雑誌類、読み物類、その他のメディアも含めて、競争相手である。

 一丁前に考えて、キャッチアイだの、やさしい・親近感だのがいつも目先をちらついていた。異なる表現をすると、文化ヅラしているのは大きな間違い。ハイブラウ(highbrow)でなくロウプラウ(lowbrow)だとも考えた。読者獲得、視聴率獲得の深いもやもやのなかにあった。

 いまのメディアは当時考えた技術論の次元をはるかに超えているかもしれない。ただし、横並びだから格別目立たない。『週刊文春』が抜き出ているのは、編集技術(プロセス)ではなく、対象の内容(コンテンツ)が月並みでないからだ。かくして暴露の価値が高いと見られるのに違いない。

 ところで、自分は近ごろ、たとえば新聞記事の見出しが鼻につく。もっとも嫌なのは煽情的表現である。年がら年中、大きな事件・事故の追悼記事が掲載されない日がないほどだ。追悼センスに弾みがついて、見出しも記事も非常に情緒的である。表現技術が巧みというのか、感涙を誘う意図が感じられる。情報の発信側が心がけるのは知・情・意である。よく知られた事件・事故だと、記事に差異か出るのは情というわけだろうか。

 そこで政治社会の重要問題に目を移す。「骨太の方針」は小泉時代に出てきたが、当時もいまも、なにが骨太なのかまるで理解できない。「異次元の」という言葉は時間が過ぎて、骨太では刺激性か弱くなったからスパイスを利かそうとしたのだが、日銀前総裁黒田氏の場合、異次元だったのは氏のオツムだったことが10年という時の流れによって証明された。

 岸田氏は性懲りもなく「異次元の」少子化対策と転用した。正しい理解はこうだ。政府はじめ、国家にとって少子化対策は大問題だと長らく主張してきたが、下手な鉄砲数撃っても当たらない。効能がない。そこで、少子化対策ならぬ、「少子化対策とは異次元」(の政策)というつもりならわかる。

 正直な(?)岸田氏は、本来の少子化対策とは次元が異なる政策ですよという意味で「異次元の少子化対策」とした。一方、メディアや世間は挙って、あっと驚くような少子化対策という売り込みだろうと勘違いした。これが目下、岸田内閣支持率低下にかなり貢献している。(言葉遊び的ですが)

 自民党はじめ保守系のみなさんは、子どもを産まないのが困ったことだ。長期的には経済・社会保障が不自由になる。つまり子どもを産まないのは怪しからんという考え方を強く押し出している。

 女性を産む機械となぞらえて猛烈抗議された大臣がいた。女性を機械同様に考えることはもちろん怪しからんが、さらに、産んで当然という論理も大間違いである。産みたくても産めないし、産みたくなくても生まれる。

 いかなる能力であっても、能力を引き出して使うのは個人の意思である。自分の持てる能力を出し切っている人は存在しない。だから、人は産まねばならないという理屈はない。これでは個人の都合を無視している。

 福沢諭吉が「天は人の上に人をつくらず 人の下に人をつくらず」という言葉を欧州から持ち帰った。この真意(神意にあらず)が、人間の尊厳である。これを大事にするのが個人主義であり、政治的には基本的人権という。

 保守系の人々は、個人主義(individualism)を利己主義(egoism)とすり替え、基本的人権を主張する人を左翼呼ばわりする。左翼と呼んでも構わぬが、彼らが左翼という場合には戦前の「アカ」という排除論である。その本体は全体主義であり、個人主義から出た民主主義とは別物である。

 言葉が軽い世相は、ものごとを考えない気性と同じ土壌から出るようだ。